文明の法則(文明法則史学)の発見 〔村山節〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・村山(みさお)先生について

 “私は一九一一年(明治四四)、岡山県で生まれました。父は郡制施行から廃止まで郡長を歴任。小学校六年生から二十歳くらいまで、ずっと全身結核に侵され、学校年齢のほとんどを寝て過ごしました。結核とケガで右足が不自由になり、松葉杖を使わなければなりませんでした。

 昭和八年の四月、二十二歳のときに岡山を出て、鎌倉は気候がいいということで、知らない土地でしたが移り住みました。すでに父も兄弟も亡くなって、母と私だけです。死出の旅のつもりでした。岡山を後にするとき、先祖の位牌ひとつひとつに、「もうここには戻れますまいから、あなたがたの世話はできません。どうか天に帰ってください」と頭を下げて燃やしました。

 岡山を出て鎌倉に着いたのは翌朝六時ごろでした。まだまだ早い時刻です。年寄りの母と松葉杖の私が駅を出るとき、高級車がスーッと寄ってきて「私どもは海浜ホテルのものですが、よろしかったらお泊りになりませんか」と言う。そりゃいいだろう」ということで、頼んでもいないのに不思議な体験でした。

 次の日家を探すのに、その高級車が行ってくれることになり、どこへ行っても、金モールの制服を着た運転手さんのおかげで即座に大家さんの承諾がもらえました。半日で家が決まり、その夜は旅の疲れもあって、早いうちに寝てしまいました。

 あくる朝、ダンダンダダーンというものすごい太鼓の音に驚いて目を覚ますと、なんと家のすぐ東側の隣が鶴岡八幡宮の大神殿でした。何十年かしてわかったのですが、私の父の実家は足守八幡宮の神主の家で、なにか不思議な縁を感じました。

 

 私の学問はほとんど独学です。家にあった大量の書物を読みました。英語は兄の中学時代の古い教科書から勉強しました。また早稲田大学の校外生となり文学部の学科を勉強しましたが、これだけではとても一人前の学生とは言えないと、政治経済学部でも勉強しました。二つの学部で学んだのです。

 鎌倉に移った翌年、ロンドンタイムズを読んでいたところ、リージェント協会というところが英文執筆の通信教育をやっているという広告が目に入り、さっそく入会しました。協会から送られてくる教科書を読んで、論文を書いて送ると、添削して返送されてくる。それをくり返して英文ライティングの力をつけました。

 昭和十三年の春に、ニューヨークタイムズに英文を書いて送りました。前年から始まった日中戦争、上海事件に対して日本人にも主張があるという内容です。すぐニューヨークタイムズ本社から連絡が入り、「君の原稿が本紙の日曜版に掲載されることになった。本社に関し、東京特派員のヒュー・バイアス君に連絡せよ」という。外国人と話すのはこれが初めてのことでした。バイアスが言うには「君はすごく運がいい。日本から原稿を送ってすぐ採用されるなんてことはないよ。しかも本社からは君に継続して書くようにと言ってきた。君の本社での主任はレスター・マーケル君だ」。当時マーケルは日曜版の編集をしていましたが、何十年かの後にはニューヨークタイムズの社長にまでなった人です。

 

 昭和十三年、二十七歳の夏に不思議な体験をしたのです。そのころ散歩などの目的で八幡宮をよく散歩していたのですけれど、神に手を合わせたり、おみくじを引くことは一度もしませんでした。神様に頼っても仕方がないという気持ちがあったからです。

 ある午後のことです。夕焼けが空一面を赤く染めていました。境内を散歩した後、二の鳥居近くの並木道を歩いていたとき、突然空から声が落ちてきました。「歴史は直線の分析より始まる」というのです。大きな声でね。心の中から起きた声ではなく、天からそういう言葉が降ってきて私の心を驚かせました。

 「歴史は直線の分析から始まる」―― 家に帰ってもこれが頭の中でわんわん響いてしかたがない。しばらくの間考えに考えて「直線は時間軸、分析といったら目盛を読むしかない。つまりこれは物さしかも‥‥‥統計かな」と考えました。

 当時私は天才論の研究をしていました。天才学の世界的潮流はフランシス・ゴルトン・この人はダーウィンのいとこで、ユージェニクス(優生学)の開拓者です。彼は「天才は遺伝である」と主張しています。私は考えました。遺伝は社会的に大量に変動はしない。天才が平均分布するのならゴルトンの説は正しい。しかし、平均分布しないならば、彼の説は間違いである。

 そこで私がとりかかったのは、ギリシャの天才時代の研究です。広告の裏をつなぎ、直線を書いてそれに一センチ間隔で目盛を入れていきました。紀元前八〇〇年から一〇〇〇年間以上にわたり、ギリシャの政治、経済、文化、哲学、芸術などで活躍した天才の名前や生まれた年、没年などを記入していきました。そうしてわかったことは、天才は平均分布していないということです。ゴルトンの説は成り立たないのです。

 同様に次々と年表に記入しながら、中国、ローマ、フランス、イギリスと歴史研究を続けた結果、全体のパターンが似てくることに気づきました。どうも法則があるらしいのだが、これだけでは世界史全体の法則を云々するには資料が足りません。そこで大世界年表を作ることを思い立ちました。

 これが文明法則史学研究の始まりです。まず幅一メートルくらいの紙をつないで廊下に敷き、これに目盛を入れていきました。一センチを十年としました。紀元前であろうと、二十世紀であろうとあくまで十年=一センチの等間隔です。一〇〇センチで一メーター。人類六千年の歴史もって六メーター。六畳二室の勉強部屋のほかに家に長い廊下があったことが幸いしました。これに時間軸を直線で横に入れて、横線から上はアジア、下はヨーロッパ、中央付近は中央アジアとインドにして、さまざまな歴史上のできごとを毎日毎日書き入れていきました。寝ている時間とトイレ、食事の時間以外は年表に向かいました。文明のところは赤鉛筆にしよう、天才については紫にしようという具合に色わけして記入しました。廊下はガラスを締め切ってインコ小屋にしていたので、インコの糞が落ちてくる。その下でタバコを吸いながら一日中年表をながめていたら、ある日ハッと気づくことがあったのです。

 文明はかたまり、集合するらしい。赤や紫の鉛筆で記入したのが固まって出る。決して平均に分布するのではない。たとえば、紀元後四世紀。ここでギリシャ・ローマ文明が衰退する。次に五世紀から十三世紀まで東洋の大文明。唐、宋、ササン朝、サラセンなどの大文明はみなこの時期に集中している。このアジアの大文明期にヨーロッパは中世、暗黒時代。そして一三〇〇年ころからヨーロッパがルネサンスを迎えると、逆にアジアは衰退に向かっていく。どうも文明には西と東の二本の波があり、それが約八〇〇年で周期的に交代しているようだ。本当にそうか?と何度も何度も調べ直しました。

 私が文明の法則を見つけ出してから十年以上経った一九五三年にワトソンとクリックらの学者によって遺伝子のDNAの二重螺旋構造が明らかになりました。文明もDNA同様に、東の文明波と西の文明波が二重螺旋になっているらしい。地球の北半球が夏のときに南半球は冬。同様に東の文明圏が栄えているときには西の文明圏は休止状態です。こうして文明や歴史の流れをマクロ的にとらえて考えていきますと、法則史学の考え方ができてくるのです。‥‥‥(以下略)”

 

(林英臣「地球のバイオリズム 文明法則史学とは」(カタツムリ社)より)

 

*この文明法則史学というのは、村山節先生が発見・研究されたもので、世界文明の栄枯盛衰にはバイオリズムのような波、つまりある一定の法則があるとするものです。ここでは、村山先生のもとで学ばれた林英臣先生の講演がまとめられた本から、村山先生ご自身にインタビューされた箇所の一部を紹介させていただきました。

*村山先生の説によると、地球の文明には東と西の二本の波があり、図を見ると、それぞれが約八〇〇年の周期で栄枯盛衰のパターンを繰り返しているということがわかります。そして、ちょうど現在がその歴史の大激変期であり、これからの八〇〇年間は東の文明圏が高調期となることが予想されるのですが、国家としての目標を持たない日本が、その波にうまく乗れるかどうかはまだわからないということです。とはいえ、出口王仁三郎聖師には、はっきりとしたヴィジョンが視えていたようで、人類愛善を旗印に、世界平和を実現することが日本人の使命であり、日本は世界の鑑(かがみ)となると説かれています。そして、全世界をミロクの世とするために、まず日本がミロクの世となることを予言され、その実現のために大神劇の脚本でもある「霊界物語」を世に出され、さらに世界連邦政府の提唱や経済・教育制度の改革、合気道、酵素農法、エスペラント語の採用などを主張され、ちゃんと道筋を示して下さったように思います(ちなみにルドルフ・シュタイナーは、社会有機体三分節化運動を主張すると共に、民族を蘇らせ創造性を高めていくべきことなどを説いています(とはいえ決して民族主義ではありません))。ですが、それらは未だにどれも実現してはおらず、反日左翼勢力(「マルクスは大和神国の白蟻」)も相変わらずのさばっており、ミロクの世の到来はまだまだ先のことになってしまうのか、少々不安でもあります。私の個人的な考えですが、「霊界物語」の霊界を言霊によって現界に移写させるため音読に励むことと、中国(中国共産党ではありません)や台湾、チベット、新疆ウイグル、満洲、モンゴル、そして特にインドやイスラエルとの友好関係、協力関係を深めて行くことが重要であるように思われます(大正時代に口述された「霊界物語」には、チベットや新疆のこと、さらにユダヤ人がパレスチナに新国家を建設することも書いてあり、そして神素盞嗚大神様の命を受けた宣伝使たちはインドを目指して進むのです)。

おもひきや吾うつそみのまのあたり 八紘為宇の神業見んとは 王仁

 

*日本エドガーケイシーセンターの光田会長も、ケイシー・リーディングにも「諸惑星の配置がほぼ八〇〇年で一巡することから、地上の現象は必然的にそれにシンクロするように生じるのだ」と、文明の八〇〇年周期について述べたものがあるということで、やはり村山先生の文明の法則との共通点を指摘しておられました。さらにリーディングの中には、「もっと親密な兄弟愛、隣人を自分自身のように愛する精神がアメリカの中で培われてなければ、文明は西回りに流れるに違いない。そして、またモンゴリアが、あの憎まれた民族が台頭するに違いない(3976-15)」というのもあります。ここでケイシーは、「親密な兄弟愛、隣人を自分自身のように愛する精神がアメリカの中で培われてなければ、‥‥‥」という条件を述べているわけですが、これは言い換えれば、アメリカが国民の間に兄弟愛・隣人愛を培うことが出来れば今の地位を維持できる、ということになります。この兄弟愛・隣人愛は普遍的な真理であるとともに、前回のブログでも紹介させていただきましたが、ルドルフ・シュタイナーによれば、道徳と自然法則・宇宙的な普遍の法則とは互いに混合しているのであり、ゆえにこの先、日本がさらなる発展を遂げるためには、教育や革新的な技術の開発などにもっと力を注ぐべきなのは当然ですが、何よりもこの兄弟愛・隣人愛を培ってゆかなければならず、そしてこれこそが人類愛善の精神であります。

 

*村山先生は、鎌倉の鶴岡八幡宮で啓示を受けられたわけですが、この鶴岡八幡宮は、11世紀に京都の石清水八幡宮(男山八幡宮)から御神霊を勧請して建てられた鶴岡若宮がその始まりです。そして、若き日の上田喜三郎(出口王仁三郎聖師)を導かれた神霊である小松林命(こまつばやしのみこと)は、その石清水八幡宮の眷属であり、後に五六七(みろく)大神の系統でもあることが明らかにされました。

 

*また、戦前に中国の恒山観や白雲観(北京)で修業され、帰国後に仙道連を主宰された五千言坊玄通子道士は、白雲観の観首であった方から、「次の文明の発祥するところは日本と印度だ」と告げられたと語っておられます。

 

*あと、三十年ほど前に、太陽黒点の変動と景気変動曲線の一つであるコンドラチェフの波との関連が話題になったことがありました。確かに『周期』というものは、すべてのものにあるようです。

 

・モンゴルでの御神業 〔玉と剣の発動〕

 

 「それは玉と剣だよ」

といって、ハハハハ、と豪快に笑った出口王仁三郎師は、意表をつかれてキョトンとした岡崎鉄首の顔へ、ブーッとたばこを吹きかけた。

 「玉と剣?……どこにあったものです」

 「綾部の大本の宝物だったよ。玉は水晶、剣は天国(あまくに)の名刀だ。それをソッと持ち出し蒙古に置いてきた。この二つが発動しだすと世界は動くことになるのじゃ」

 「へぇ……」

 岡崎には何のことか神秘めいたことはわからなかった。出口師に会うと、きっと一、二度は神秘的な言葉に接する。するとムッと反感を覚えるが不思議とまたそれが魅力で神秘的言葉がないとさびしい。

 大正十四年三月、春とはいえ、亀山城の城跡に吹きあげてくる風は寒かった。

 怪物と世間から注目されている出口師の居間には瀬戸物の火鉢が一つと古机が一つあるだけで、床に八方にらみの達磨の軸がかけてあり、その前に白梅がいけてあるだけであって、何一つ調度品もなかった。

 「満洲浪人もこのころは活動舞台がなくなって奥さん孝行ができるだろう、ハハハハハ」

 「いや、とんでもない。蒙古入りを失敗に終わらせたのはわれわれ浪人がボケていたからだと知人には笑われ、家内には責められ身のおき場がありません」

 「ハハハハハ、気の小さい満洲浪人だなぁ。なにも失敗ではない、成功したのだよ。一石を投じたのじゃ。波紋は今、拡がりつつある。神界の経綸からいえば舞台装置ができて、これから剣の舞がはじまるのじゃ」

 「ちょっと……どうもわからん。神界の経綸だの、剣の舞だの……私は少し頭が悪いのですから……」

と、自分の頭をコツンとたたいた。

 そして

 「大庫倫に入って蒙古王国を建設する目的が張作霖のために挫折し、多くの犠牲者を出し、おめおめと閑居することは、残念で腹が煮え返るようです。

 「神と人との合作だよ。人のすることはもう終わった。笑うものには笑わし、失敗だというものには言わしておきなさい。成果はこれから起きる神劇にある。張作霖もやがて剣の裁断を受ける」

 「そんなことがわかりますか?」

 「わかる」

 

    (「人類愛善新聞」昭和33年7月 高松恋月(大国美都雄)『過潮の月』)

 

・大本愛善苑二代苑主、出口すみ子(聖師の妻)の言葉

 

 「先生の蒙古入りのことは、ずっとあとで詳しく述べますが、大へん深いお仕組みで、まだ先でないと、このことを言うても、だれにも通じないことでありまして、やがてこのお仕組みが実地にまわってくるのであります。」

 

 「蒙古というところは、神界からは理(わけ)のあるところでありまして、大本にあることは不思議なことばっかりであります。」

 

             (出口すみこ「おさながたり」天声社)

 

*リブログ先で紹介させておりますが、出口聖師は、戦前に満洲からモンゴルに行かれ、そこで何らかの霊的な仕組みをされており、さらに要人に働きかけて「明光国」という万民和楽の王道楽土、理想国家を建国しようとしておられました。エドガー・ケイシーもはっきりと「モンゴリア」と言及していますが、出口聖師がモンゴルで仕組まれた「型」が、未来においてどのように発動するのか、今後の大陸の動向を注視したいと思います。

 

・スワミ・ヴィヴェーカナンダ 

 

 “ある日、彼はチンギス・ハーンについて語り、ありふれた侵略者ではないと言った。さらに、モンゴルの皇帝をナポレオンやアレキサンダーにたとえた。彼らは皆、世界を統一することを、それも政治的征服による人類の統一を望んで、三度実現したが、その魂は同じであると言った。同様に、一つの魂が、何度も何度もクリシュナ、仏陀、キリストとなって宗教による人類統一のために顕れたとも言った。

 

 “次の動乱は、ロシアか中国から生じるでしょう。どちらかははっきりとは見えませんが、そのどちらかでしょう。”

 

 “世界はヴァイシャの支配下のもとに、第三期にあります。第四期はシュードラの支配下になるでしょう。”

 

 “ヴァイシャ、すなわち商人と、シュードラすなわち労働者は、ヒンドゥー教徒の社会では第三と第四の階級である。スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、次には、第四の階級が人間社会を支配すると言った。バラモンは古代インドの光輝の時代には世界の思潮を支配した。それから、ローマ帝国の時代から17世紀の中頃まで、ヨーロッパの覇権を通じて表明されているように、クシャトリヤ、すなわち軍人の統治ができた。スワミはシュードラ階級の来るべき主権を予言した。この循環の完成後、精神文化は、自ら再び現れ、宗教の師バラモンの力を通じて人間の文明に影響を与えるだろうと言った。スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、インドの過去の栄光のすべてをしのぐものとしてインドの将来の偉大さをしばしば語った。

 

   (スワミ・ニキラーナンダ「スワミ・ヴィヴェーカーナンダの生涯」法律文化社より)

 

「わたしは日本のために何かをしたい」

  “日本に、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの名―― インドの偉大な僧でありヒューマニストであった彼の名―― をお聞きになった人はたくさんあるでしょう。しかし、かならずしもその全部が、彼が1893年アメリカに行く途中、日本に立ち寄り、何日間かここに滞在したということを御存じではないでしょう。彼はこの年の9月11日、シカゴで開かれる世界宗教会議で歴史的な講演をしたのです。日本に滞在中、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、1893年7月10日、インドの弟子たちの一人に宛てて横浜から長い手紙を出し、日本までの旅の様子を簡単に報告しています。その中で彼は、日本およびその文化と文明を高く評価しています。そして、「われわれの若者たちを何人か、毎年日本と中国を訪れさせるべきだ」と言っています。

 ある人々はもちろん、右に引用した手紙のことはご存知ですが、これだけでなく、ほかの場合にもスワミジーがしばしば、日本について考え深い見解を示したことは、ほとんど知られていません。1897年、彼はマドラスの有名な新聞「ザ・ヒンドゥ」の記者会見で、リポーターから、「日本で何をご覧になりましたか。また日本の進歩にならって、インドも変わると思われますか」とたずねられ、次のように答えています。

 「三億のインド民族が一つの国民として団結するのでなければ、何の変化も起こらないでしょう。日本人のように愛国的でしかも芸術的な国民は見たことがない。彼らの一つの特色は、ヨーロッパその他の地域では美術は一般的に不潔をともなっているのに、日本の美術は美術プラス清潔さだ、ということです。

 私は、わが国の若者たちの一人ひとりが少なくとも一生に一度、日本を訪れたらよかろうに、と思います。日本へはごく、楽に行けるのです。日本人は、インドのものは何もかも立派であると思い、インドは聖地である、と信じています。日本の仏教は、君たちがスリランカに見る仏教とはまったく違います。ヴェーダーンタと同じです。スリランカの消極的な無神論仏教ではなく、積極的な有神論仏教です」

 リポーターが質問しました、「日本の突然の成功のカギは何なのでしょうか」。ヴィヴェーカーナンダは答えました、「日本人の、彼ら自身への信仰、そして彼らの母国への愛です。もしわが国に、母国のために自分のすべてを捧げることをいとわない、骨の髄まで真面目な人たちがいて、そのような人々が立ち上がるなら、インドはあらゆる点で偉大になるでしょう。

 国をつくるのは人間です!国の中には何があるのですか。もし君たちが、日本人の社会道徳と政治道徳を獲得するなら、君たちも日本人と同じように偉大になるでしょう。日本人は本当に、自国のためにすべてを捧げる、それだから彼らは偉大な民族になった。しかし君たちはそうではない。そうはなれない。自分の持ち物と家族のためだけに、一切を捧げるのです」

 そこで記者は、次のような複雑な質問をして専門的な議論をしたことを述べています。「では、あなたはインドは日本のようになってほしい、とお思いになりますか」まるでこの質問に促されたかのように、スワミジーは、インドと日本との関連はどのような理想のもとにつくり上げられるべきか、についての彼の真意を説明しました。「絶対にそうは思いません。インドはあくまで、今のままであり続けるべきです。どうしてインドが国のあり方について、日本、またはどこであれ、他の国のようになることができましょう。それぞれの民族は、音楽の場合と同じように、他のすべてを従えて中心となる、主たる旋律を持っています。それぞれの民族が、あるテーマを持っています。インドのテーマは宗教です。社会改革および他のすべては二義的なものです」

 ですから、インドは日本のようにはなれません。「ハートがはり裂ける」と、思いの流れが湧き出す、と言われています。インドのハートははり裂けなければなりません。すると、霊性の流れが湧き出すでしょう。われわれは日本人のようではありません。われわれはヒンドゥです。インドの雰囲気そのものが、心をしずめるものです。私はここで絶えず働いてきました。この仕事の真っただ中で、私は休息を得ているのです。インドでわれわれが休息を得ることが出来るのは、霊的な仕事からだけです」

 日本とインドの関係についてのスワミジーのこの見解はまさに、世界中のあらゆる二国間の関係についての彼の考えを代表するものです。スワミジーは、国々は自分を見失うことなく、自分たちの文化と自分たちの文明のよきものを犠牲にすることなく、有無あい通じることによって共に豊かになるべきだ、と信じていました。これと同じ考えを、もう一人の偉大なインド人、詩人のラビンドラナート・タゴールも持っていました。彼はこの考えを、「バーラタティルタ」と題する美しい詩の中に表現しています。

 スワミジーはまた、1901年頃ベルル僧院で、後に彼の弟子ともなった、長年の友の一人との会話の中で、次のような発言をしています。「もし何人かの未婚の卒業生を得たら、私は彼らを日本に送り、あそこで技術教育を受けさせるようにしたいと思う。そうすれば彼らは帰ってきたら、その知識を十分に、インドのために役立たせるだろう。それはどんなにいいことだろう!」

 問 「まあ、マハラージ、私たちはイギリスに行くより日本に行った方がいいのですか」

 スワミジー 「そうとも!私は、もしわが国の裕福で教育のある者たちが一度日本に行ったら、彼らの目は開かれるだろうと思う」

 問 「どのようにですか」

 スワミジー 「日本では、知識が見事に消化されていて、わが国に見られるような不消化がない。彼らはあらゆるものをヨーロッパ人から取り入れた。しかし、彼らはあくまでも日本人であって、ヨーロッパ化してはいない。ところがわが国では、西洋風になろうというおそるべきマニアが、疫病のようにわれわれをとらえてしまっている」

 (私は言った)「マハラージ、私はある日本画を見ました。彼らの芸術には、驚嘆せずにはおられません。そのインスピレーションは彼ら独自のものであって、模倣ではありません」

 スワミジー 「まったくそうだ。彼らの美術を見ても、彼らは偉大な民族だ。彼らはわれわれと同じアジア人ではないか。……まさにアジア人の魂が、美術の中に織り込まれている。アジア人は決して、その中に芸術の含まれていないものは使わないのだ。君は、美術はわれわれにあっては宗教の一部なのだということを知らないか……」

 右の二つの会見記によって、スワミジーが若いインド人を日本に送ることを熱心にすすめていることがわかります。その理由は簡単、彼はインドの復興という思いにとりつかれており、若いインド人を日本に出すことは復興に役立つ、と深く信じていたからです。また、これら二つの会見は、スワミジーの横浜からの手紙に表明された、彼の日本への高い評価に確証を与えるものです。スワミジーは、西洋文明に対しては、複雑な意見を持っていたが、日本の文明はただ称賛するのみであった、ということには注目しなければなりません。

 それでも彼は、日本が数々の素晴らしいものを持ってはいるが最高の点では方向を欠いている、ということには十分、気づいていました。この方向は、インドが見いだし示し得る、霊的方向にほかなりませんでした。その時代のもっともすぐれた人物の一人であった岡倉天心および少数の彼のような人びとは、同じ必要を感じていたにちがいありません。それだから岡倉は、1901年、はるばるインドまで行き、スワミジーを日本に招いて生命をみたす彼の教えを普及させようとしたのでしょう。

 結局、スワミジーは日本に来ることはできませんでした。興味がなかったからではなく、健康が衰えつつあったためと、すでに今生の終わりが近づきつつあることを知っていたためでした。しかし、あの偉大な、そして愛深い魂は、どれほど日本に来てこの偉大な国に何かの貢献をしたい、と思ったことでしょう!この地上を歩んだまさに最後の日、1902年7月4日にも、彼は「日本のために何かをしたい」ともらしました。彼は肉体に宿っている間にはそれを果たすことはできませんでした。

 しかし、彼ははっきりとこういったではありませんか、「私は、自分の体の外に出ようと―― 着古した着衣のようにこれを捨てようと―― 思うときがくるだろう。それでも私は働くことをやめない!この世界が、それが神と一つのものだということを知るまで、私はいたるところで人びとを鼓舞し続けるだろう」

 ですから私たちは、スワミジーは生前果たし得なかった日本での使命を今取り上げた、と信じたいと思います。西洋文明から生まれた病癖の在るものが現代社会にますます顕著になりつつある今日、それは日本にとって、緊急に必要なものとなっています。スワミジーは今まででも、この国の霊的福祉のために働いてきたのですが、彼は日本が完成という目標に達するまで、働き続けるでありましょう。”

 

(「不滅の言葉」スワミ・ヴィヴェーカーナンダ訪日100年特集号 スワミ・メダサーナンダ『日本で生きるスワミ・ヴィヴェーカーナンダの精神』より)

 

・ルドルフ・シュタイナーと「民族」

 

 “高橋 右翼思想とシュタイナーの関係でひとこと付け加えますが、シュタイナーは「民族」というものをたいへん重視していて、オカルティズムの究極の目的は個人が民族に還ることだとさえいっているんです。けれどもその場合、なぜ民族に還るのかといえば、それは民族の将来のために個人が奉仕するためである、といっています。奉仕できるまでに魂が成熟したときに、民族に奉仕するのです。

 けれども右翼の思想の多くは、民族によって自分が救われるために、民族に還ることを暗黙の裡に前提としています。これは全く逆なんです。民族の自己同一性が問題となる時、個人が自分の救われる場所をそこに求めるということになると、自分の民族の既成の伝統や文化の中に還ることになります。しかし、シュタイナーのいう民族に還るということは、仮に過去に栄光を背負った民族が今は衰退していても、霊性を発達させた人がその民族の中に己れを同化させることによって、その民族が新たな生命を得て甦り、再び新しい文化を生み出す能力を獲得するようになるその過程の問題なのです。ですから保守主義的態度をとるわけではありません。人類の未来のために、ある民族の創造性をいかにして甦らせるか、ということなのです。そしてそれこそがオカルティズムの意味を二分する決定的な観点だと思います。”

 

          (高橋巌+荒俣宏「神秘学オデッセイ」平河出版社より)

 

・〝光の霊″と〝闇の霊″との戦い 〔ルドルフ・シュタイナー〕

  〈偏狭な民族主義は人類を退化させる〉

 

 “シュタイナーは、現代史の中に二種類の霊的な力が激しく衝突するのを見ていた。一九一七年十月二十六日の講演で、次のように述べている。「光の霊たち」は「いま人間にインスピレーションを与え、自由の観念と感性を、自由への衝動を発達させようとしている」。それに対して「闇の霊たち」は「人種的、民族的な関連、血に根差した古い衝動」を現代によみがえらせようとする。「人種、民族、血統の理想をはびこらせることほど、人類を退廃へ導くものはありません」とシュタイナーは警告した。”

 

 “民族主義を意識的に煽っている人間たちがいる、とシュタイナーは考えていた。彼らを駆り立てているのは、特定の民族至上主義や愛国心ではなく、「純粋な破壊衝動」である。”

 

 (高橋明男「〝光の霊″と〝闇の霊″の激突」より)

 (「歴史読本臨時増刊 特集・超人ヒトラーとナチスの謎(‘89-3)」(新人物往来社)に掲載)

 

・カスパー・ハウザーの謎

 

 “ルドルフ・シュタイナーの思想については、すでに多くの優れた研究がある。しかしながら、シュタイナーがカスパール・ハウザーに関してどのように認識していたか、に触れた研究は極めて少ない。

 カスパール・ハウザーとは1828年にニュルンベルクで保護された身元不明の少年である。当時十六歳くらいだったハウザーは、言葉を一切話さない白痴状態にあった。それは長く地下牢に幽閉されていたためらしい。だがハウザーは法学者フォイエルバッハに引き取られ、やがて驚異的な学習能力を示すことになる。二年後、彼は学者と論争するまでに成長するのだ。

 ハウザーが歴史上に姿を現していた期間は短い。路上で発見されてから五年半後、――1833年12月、アンスバッハへ旅した際に何者かに暗殺されてしまったからだ。ハウザーの出自をめぐっては、ナポレオン一世の子、バーデン公カール・フリードリッヒの子……説などがある。ところがシュタイナーはまったく異なる見解に立っていた。シュタイナーはカスパール・ハウザーを来るべき時代のキリストとなるべき運命の存在であった――と捉えていた。

 そして、ハウザーの果たすべき隠された役割に気づいた秘密結社が彼を誘拐した、とする。ハウザーを現世で活躍させないために幽閉し、あらゆる感覚的刺激を遮断し動物のように育てたのだ、と。

 シュタイナーの言うとおりだとして、ハウザーを誘拐した秘密結社とは何か。さらにハウザーとは……。ハウザーをめぐる謎は依然、封印されたままだ。(中島渉)”

 

(荒俣宏・鎌田東二「神秘学カタログ」平河出版社)

*私には民族のアイデンティティは何よりも重要なもののように思えます。そして、どの民族も他の民族との共存共栄を目指すべきであって(本来「八紘一宇」とはそういう意味です)、このことは実際に実現可能だと律法(トーラー)にも書いてあります。とはいえ、かつてカスパー・ハウザーの身に起ったように、人類の進化を意図的に妨害しようとする勢力も実際に存在しているのであり、偏狭な民族主義を煽って人類を退化させようとし、また一方で悪魔アーリマンは主に唯物論を通じて世界を支配しようとしています。ということは、民族主義と結びついた左翼思想ほど始末に負えない最悪なものはなく、そのような集団や国家の出現も十分予想され得ることです(既に存在しているかもしれません)。最終的に世界中が神国となることを神様は望んでおられるようですが、まず日本が神国として世界の鑑になることが許せない人達もいるようですし、闇の勢力に取り込まれることの無いよう、我々はこの国の未来についてもっと真剣に考える必要があると思います。