本来の日本人の宗教 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “……ここに特に注意すべき事実は、太古の宗教には教祖の無いことである。ある人は、事があまりに古いため、その名が亡失せられたであろうと云ふかもしれぬが、人心をかくも強烈に支配し来たれる宗教が、その開祖の名を亡失せしめると云ふが如きは断じて首肯し得べき事ではないのである。

 この事実は蓋し太古の人々は、そのすべてが天啓に接し得たことを証明するものであろう。中古以来人類が漸進的なる普遍的堕落のため次第に神と隔離し、交霊上困難なる障壁を築くに至ったので、神界からは其の中の特殊なる霊性神縁を有する人に特別なる身心の錬磨を賦し、之を通じて天啓を一般に與ふると云ふ手段を執らるることとなったのである。斯の種の人が、所謂宗教の開祖たるべき人で、基督、マホメット、釈迦、また近くでは天理教祖及び大本教祖の如き皆これである。併し、太古の純真な、神諭の所謂「まことに結構な神代」に於いては、かかる間接な手段に出づるまでもなく、すべての人が皆自由に神霊と感合し、神示を得ることができたのである。而して神界に現世界と等しく、此の数千年間は混乱不統一の状態を演出して居るが、太古には我が日本の神界を中心として整然たる統一状態にあったのである故に、世界各地の神啓も自ら統一されて居なければならないのである。これ等の論証よりして、太古の宗教の統一状態に在りし消息は愈々明らかになって来る。この太古の宗教は、先づ天地の祖神に最大の崇拝を捧ぐるものであって、この点にては、最上神崇拝であるが、同時に独一真神の応現たる八百万の天津神国津神及び祖先の霊魂にもそれぞれに相応しき崇敬を拂ったものである。即ち太古の世界的宗教には最上神崇拝も、自然崇拝も、祖先崇拝、精霊崇拝も総てがうるわしく渾一されたる、最も完全なる宗教であったのである。(以下略)”

 

   (「神の國」大正10年9月号 井上亮『皇道大本に立脚せる宗教論(二)』より)

 

*上記の文に、「先づ天地の祖神に最大の崇拝を捧ぐる」とありますが、現在の多くの日本人に欠けているのは、この天地の祖神、すなわち主神への信仰だと思います(天之御中主神や大日如来など、まったくないわけではありませんが)。八百万の神々はキリスト教 のエンゼルであり、彼らは崇拝対象ではありません。スウェーデンボルグによると、天使たちは人々が主なる神ではなく自分(天使)を崇拝してしまうことに恐怖を感じており、またシュタイナーによると、人々が天使に何か(物質的な)願い事をするのは、彼らにとって苦痛でしかない、と述べています。出口聖師は全国各地の神社に参拝に訪れておられますが、それについては「挨拶と同等の意義においてである」と語られ、やはり枝の神々ではなく、まず主神を第一にすべきことを説かれています。 この主神への信仰、主なる神についての概念の重要性がもっと認識されるようになれば、我々日本人はかつて有していた太古の「最も完全なる宗教」を取り戻すことができるのではないかと思います。

 

 

・神や天界との結びつきは、神の概念によって左右される  (E・スウェーデンボルグ)

 

 “神の概念〔神についての考え〕は凡ゆる観念の中でも主要なものである。なぜならこの観念〔考え〕のいかんに、人間の天界との交流とまた人間の神との連結が左右され、また人間の照示〔明るくされること〕と真理と善とに対する人間の情愛と認識と理知と知恵が左右されるからである、なぜならこれらのものは人間から発しないで、主との連結に従って主から発しているからである。神の観念は主と主の神的なものとの観念である、なぜなら主御自身がマタイ伝に教えられているように、天の神と地の神とは主以外の者ではないからである。”

 

    (イマヌエル・スエデンボルグ「霊的な生命・神の聖言」(静思社)より)