「マニ教」の復活〔ルドルフ・シュタイナー〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 ‟‥‥‥パルツィヴァルがアーサー王の宮殿に戻ると、聖杯の使者クンドリーがやってきて、パルツィヴァルが聖杯城の晩餐に招かれていると告げる。クンドリーの案内で、パルツィヴァルは聖杯城に向かい、聖杯を礼拝して、アンフォルタスに「どうして、そんなにお苦しみなのですか」と、訊いた。その瞬間、アンフォルタスの傷は癒える。

 パルツィヴァルの前世が、マニである。

 

 マニ教は、ゾロアスター教にキリスト教と仏教とを折衷した、グノーシス的な宗教である。マニ(コルビキウス)は二一六年に生まれ、七歳のとき、裕福な未亡人に引き取られた。その未亡人は、マニが十二歳のときに亡くなり、中近東にいた学識ある商人あるいはスキティアヌスの書いた、『秘儀の書』『聖職者の書』『福音の書』『宝の書』という四冊の本をマニに残した。マニは「寡婦の子」と呼ばれた。

 マニは十二歳のとき、天使エル・タワンと出会い、二四歳のときには天使アト・タウムを体験した。そして、宗教家として生きる決意を固めた。

 中世のアルビ派、カタリ派は、マニ教の流れを汲むものである。神殿騎士団とフリーメーソンも、この流れに属する。

 マニ教には独自の神話がある。大いなる父の光の国に対して、闇の国の主宰者アーリマンが戦う。大いなる父は、生命の母を生み出し、原人オルムズド(オフルマズド、オールミズド)を生み出した。原人はエーテル・風・光・水・火を率いて戦う。しかし、闇が勝ち、光は闇の中に呑み込まれる。こうして、光と闇が混合する。大いなる父は〈生ける精神〉を創造して闇の国に派遣する。原人は〈生ける精神〉に助けられて脱出するが、五つの元素を闇の国に残してくる。闇の国は、光の一部を捕らえておくために、アダムとエヴァを造る。闇の国は、すべての光が失われるのを恐れて、栄光の姿にならって、アダムとエヴァを創造するのである。人間は大いなる父からの使者の似姿(光)であると同時に、アダムとエヴァの子孫(闇)でもある。

 「昔、闇の霊たちは光の国に進撃しようと思った。光の国の境まで来て、光の国を征服しようとした。しかし、彼らは光の国に対して、なにもできなかった。

 光の国の神霊たちは、自分たちの国の一部を取って、それを物質的な闇の国に混ぜた。光の国の一部が闇の国と混ぜられたことによって、闇の国のなかに混沌とした渦が生じた。この渦から死が生じた。闇の国は、絶えずみずからを消耗・消滅させる萌芽を内に担ったのである。このようなことが生じたことによって、人間が発生した。原人は闇の国と混ざり、闇の国に存在すべきでないものを、死をとおして克服するために、光の国から派遣されたのである。

 光の国は、戦いによってではなく、柔和・寛大・慈悲によって、闇の国を克服する。悪と戦うことではなく、悪と混ざることによって、悪を救済するのである。光の一部が悪のなかに入り込むことによって、悪は自らを克服することになる」と、シュタイナーは述べている。

 悪というのは、時期はずれに現われた善、場違いな善だ、とシュタイナーは考えている。ある時期には善であったものが、ずっと保持されて硬直化し、進化を妨害するなら、それは悪なのである。

 

 マニは、「感覚的な道で得られる、外的な啓示から脱しなければならない。外的な権威から伝えられたものから脱しなければならない。そうしたとき、君たちはみずからの心魂を観照できる」と、述べた。「権威ゆえに教えを受け入れてはならない。私たちは自由に教えを受け入れようと思う」と、マニ教とファウストゥスは言っている。これに対してアウグスティヌスは、「キリストの教義が教会の権威の上にきずかれていなかったなら、私はその教義を受け入れなかっただろう」と、述べる。

 中世において、ファウストは権威に反抗し、内的な精神の光に拠ろうとした。ルターが悪を取り除こうとするのに対し、ファウストは温和・寛容をとおして悪を克服しようとする。

 シュタイナーは、アウグスティヌスが現在の教会の形態を作った人物であり、彼が敵対したマニ教徒ファウストゥスは未来の形態を準備する、と考えている。

 シュタイナーは、マニ教は第六根源人種を用意するものだ、と述べている。第六根源人種というのは、「黙示録」で言う「万人に対する万人の戦い」によって第五根源人種期(紀元前七二二七年~紀元七八九三年)が終了したあとに始まる時代に生きる人々のことである。その時代には、魂のなかにあるものが外見に現れるようになり、人間は善人種と悪人種に分かれるという。

 その時代の主要テーマは、悪を善に戻すことである。第六根源人種は、寛容さによって、悪をふたたび進化のなかに組み入れることを課題とする。戦いによってではなく、寛容さによって悪を克服し、ふたたび進化のなかに引き入れるのである。その準備をするのがマニ教の課題であり、マニ教は悪に対する不戦の共同体、平和と愛の共同体を形成するという。

 悪と戦う最も有効な方法は、平静さ、沈着さを育成することだ。

 

 昔、エジプトのサイスで、ヴェールに覆われた女神イシスが真理である、と導師に告げられた青年がいた。彼は、人間がそのヴェールを取ってはいけないという忠告を無視して、深夜、イシスのヴェールを取った。そのために、彼は命を失う。夫オシリスを失った寡婦イシスの子になろうとした、この青年は、準備が整っていないのに天界の秘密を見ようとして死んだのである。

 このサイスの若者は、ナインの若者として生まれ変わる。「ルカ福音書」(七章)に登場する青年である。ナインでイエスが生き返らせた、寡婦の息子である。その場にいあわせた、ナインの町の大勢の人々というのは、エジプトの秘儀参入者たちの霊魂だ、とシュタイナーは言う。

 ナインの若者の生まれ変わりがマニ、そしてパルティヴァルである。

 シュタイナーは、マニの将来の課題は、キリスト教に輪廻とカルマの教えを浸透させることであり、二一世紀には芸術と宗教の指導者になって、聖杯の秘儀の力によって、人間がみずから善悪を区別できるように導くという。

 未来的なキリスト教が、マニ教なのである。”

 

        (西川劉範「ゴルゴタの秘儀 シュタイナーのキリスト論」(アルテ)より)

 

*下の写真は、宣伝使服姿の出口聖師です。この宣伝使服には、聖師の指示により、古代ペルシャ風のデザインや柄が採用されています。また、神素盞嗚大神様の最高神殿である月宮殿にも、やはり聖師の指示によってペルシャやエジプトの建築様式が取り入れられています。これまでの日本の宗教家の中で、おそらく出口王仁三郎聖師ほど、古代ペルシャを意識していた人物はいません。出口聖師が率いた大本、そして愛善苑は、神道系教団に分類されていますが、本来仏教の教義である輪廻転生やカルマを肯定し、さらにキリスト教のように創造神、贖罪神、さらには救世主(メシア)への信仰があり、最後の審判やその後の神の国の到来が予言されていることなど、複数の宗教が折衷されたものであることは明らかです。ゆえに、万教同根を説くのみならず、その神話=霊界物語の内容は、他の宗教の教祖や神々をも組み込み、融合させた内容となっています(キリスト=少彦名神、仏陀=月照彦神、モーゼ=天道別命、孔子=弘子彦神、中国神話の原人・盤古、バラモン教の主神・大自在天(シヴァ)など)。また「大本神諭」や「霊界物語」などの聖典に重きがおかれ経典宗教としての性格が強く、無抵抗主義をかかげているように、悪を滅ぼすのではなく救済しようとし(「鬼、大蛇(おろち)、餓鬼、虫けらまでも救うぞよ」(「大本神諭」))、あるいは宣伝歌で「神が表にあらわれて善と悪とを立て別ける」と歌われるように、善と悪を明確に分離させるということが説かれています。出口聖師は芸術家としても知られていますが、晩年、数千もの楽焼(耀盌)を焼かれ、それらを「ミロクの世の御神体」として制定されました。出口すみ子二代苑主によれば、これらが如意宝珠であり、まさに「聖杯」であって、過去の日本の宗教でそのような「器(うつわ)」を崇拝の対象とするものなどありませんでした。ただ、大本、愛善苑では霊主体従を主張していますが、これは霊体一致、霊五体五を前提としての霊主体従であって、決して「体」を軽視するものではありません。しかし、一方のマニ教は物質を否定する極端な霊肉二元論を説いており、この点は明らかに異なっています。とはいえシュタイナーが予言した未来のマニ教はそのような狂信的なものではなく、既に述べたように物質=悪を霊=善によって救済することを目的とするものであって、決して物質=悪を否定し滅ぼそうとするものではありません。リブログ先で紹介させていただいたように、そもそも神素盞嗚大神様の本拠地は古代ペルシャであり、弥勒(みろく、マイトレイヤ、ミトラ)の起源もペルシャとされています。また、出口聖師は、「大本は『経綸』の宗教であって、この点が他の宗教と違う」とも言われました。この言葉については、経綸を行う宗教であるということと、主神の経綸によって出現した宗教であるということの二つの意味があるように思われます。さらに、第二次大本事件で大本教団は解散させられ、いったん地上から消滅してしまったわけですが、戦後に出口聖師は「愛善苑」として新発足させ、自ら苑主となられました(大本教時代は「二代教主」)。この「愛善苑」の「苑」は「園」ではなく囲い(囗)の無い「苑」であり、ゆえに本来は信徒と非信徒との明確な区別はなく(ちなみに聖師によれば「『霊界物語』を読む者が本当の信徒」)、様々な宗教団体や組織を超越するものでもあります。私には、出口王仁三郎聖師の宗教こそが、ルドルフ・シュタイナーによって予言された「復活したマニ教」、つまり「来たるべき新しい時代の宗教」のように思えてなりません。