復活大祭 (東方正教会(オーソドックス)) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 「キリストは死より復活し給い、死をもて死を滅ぼされ給うた」

 

 “・・・正教会の神学思想や典礼には、キリストの御わざについて、《たたかい》と《生命》という二つの観念がくりかえしあらわれている。
 キリストは、《強い人》(マタイ12・29)、悪魔に挑んで勝利し、悪魔の王国、地獄と死を滅ぼした戦士である。この考え方によって、神人キリストがすすんで受けたはずかしめには、勝利の性格がこめられている。
 教会で行われる聖大土曜日〔受難週間(復活大祭前の一週間)の土曜日〕の早課では、つぎのように歌われる。《おおキリストよ、あなたを迎えに来た地獄は、傷ついた全能の、あなたの神性に触れて滅んだ・・・。あなたはひとり地獄と戦うために地上に降り、多くの勝利の獲物を得、そして天にもどられた。》
 正教会では、キリストのあがないはさらに深く理解されて、生の勝利としても考えられている。「十字架」は《われわれを滅ぼすものを死に至らしめ》、人の定めである死を滅ぼす。まことの神にしてまことの人間であるキリストを通して、神のいのちは人間の中にあふれだす。この両性の結合、つまり神の《顕現》〔神現〕にそむくものの心はすべておとろえ、朽ち果て、神の火の中で燃え尽きてゆく。この神の火は金曜日の受難のときにも、土曜日の死のとき〔キリストが墓中にあったとき〕にも燃えひろがり、消えることがなかった・・・。キリストはみずからをおとしめ、受難し、[十字架]の上で死に、地獄に降りてゆかれた。こうして、キリストは堕落した世界の苦しみを・・・偽りや憎しみにとらわれた人の世の地獄を・・・すべて引き受けられたのである。天使と宇宙はおそれおののき・・・《日はおののき、大地はふるえ》・・・《聖三位の一つ〔キリスト〕は、われらのために屈辱の死をうけ、苦しまれた》(聖大土曜日の早課)。しかしこのとき、人間の苦悩や孤独、責苦や死は、キリストによってうちくだかれ、キリストのうちにあって、かき消されてゆく。まよえる人間が自分の自由意思できりひらいた深淵は、神の愛の深みのなかで、ひとしずくの、つまらない憎しみのように拭きはらわれてゆく。
 《地獄の苦しみがキリストの〔からだ〕をとらえ、神のまえにある。地獄の苦しみが地上をおおい、天と出会う・・・。死よ、おまえの鞭はどこにある?苦よ、おまえの勝利はどこにある?キリストはよみがえり、おまえは滅ぶ。キリストはよみがえり、悪魔は滅ぶ・・・。キリストはよみがえり、生が支配する!》(復活大祭の早課で読まれる聖イオーアンネス・クリソストモス〔347ごろ~407〕のカテキスム)。”

       (オリヴィエ・クレマン「東方正教会」白水社文庫クセジュより)

 

 

・われらが神キリストの救いをもたらす光栄ある御復活の、聖なる輝かしき日を祝して朗読される、われらが教父聖ヨハンネス・クリソストモス(4世紀)の説教

 “敬虔なる者、神を愛する者はみな、この美しく輝かしき祝典を享受せよ。忠実なるしもべはみな、おのが主の喜びの中に入れ。断食の苦しみを味わいし者は、今その代償を受けよ。1時より働きたる者は、今その正当なる報酬を受けよ。3時以後に来たる者は、感謝の気持ちもてこの祝典を祝え。6時以後に来たる者は、ためらうことなかれ、何も欠けたるものなきゆえに。9時になりて来たる者は、ためらうことなく近寄れ。11時になりて来たる者さえ、その怠慢を恐るるなかれ、主は寛大に最初の者も最後の者も受け入れ給うゆえ。主は最初の労働者と同様に、11番目の労働者にも休息を認め給う。主は最後の者に慈悲を与え、最初の者を保護し給う。最初の者には恩恵を与え、最後の者には恩恵をなし給う。主はその成果を受け、愛もてその熱意を歓迎し給う。その行為に敬意を払い、その志を称賛し給う。さればみな、主の喜びの中に入り、初めに来たる者も後に来たる者も報酬を受けよ。富める者も貧しき者も混じり合え。節制したる者も怠惰な者も、この日を讃えよ。断食をしたる者もせざる者も、今日は楽しめ。食卓は食物に満たされたるゆえ、みな底意を持たずに味わえ。肉も用意されたるゆえ、再び空腹となる者なからん。みな信仰の祝宴を味わえ。みな美徳の豊かさを味わえ。貧しきを悲しむ者なからんことを、すべての者の王国が現れしゆえ。おのが罪を嘆く者なからんことを、免罪が墓より現われしゆえ。死を恐るる者なからんことを、救い主の死がわれらを解き放ちたるゆえ。主は死にとらわれ給いし後、死を消滅させ給いぬ。主は冥府に降り給いて、冥府より自らを奪い給いぬ。主は苦しみもて冥府に満たされ、肉体を試し給いぬ。イザヤがかく叫び給いし時に告げたるごとく。冥府は、地下にて御身と会いし時、苦しみを受けたり。冥府はその力を破られしゆえ、苦しみを受けたり。冥府は滅ぼされしゆえ、苦しみを受けたり。冥府は支配力を失いしゆえ、苦しみを受けたり。冥府は鎖につながれしゆえ、苦しみを受けたり。冥府は遺体を受けんと思い、神を見たり。冥府はちりを期待し、天に向かいたり。見たるものを受けんと思い、見ざるものにつまずきたり。おお死よ、汝の棘はいずこにあるや。冥府よ、汝の勝利はいずこにあるや。キリストはよみがえり給い、汝はちりの中に沈みぬ。キリストはよみがえり給い、悪魔は倒れぬ。キリストはよみがえり給い、天使は歓呼す。キリストはよみがえり給い、生命が支配す。キリストはよみがえり給い、墓にはもはや誰も横たわらず。キリストが、死よりよみがえりたる死者の初めなるゆえ。キリストに永遠に栄光と力を。アーメン。”(今谷和徳氏訳 LP「アトス山の復活祭」の解説文より)

 

 

*東方正教会(オーソドックス)とは、エジプト、シリアなどの中東の諸教会、そしてギリシャ、ロシアなどの東欧の諸教会の総称であり、今なお初期キリスト教会からの古い伝統を数多く継承し、西方のローマ・カトリックやプロテスタントとは異なる独自の典礼が行なわれています。東方正教会の復活祭は、グレゴリ暦ではなくユリウス暦で行われるため、今年は4月19日になります(コロナウィルスのためやむを得ず信徒は不参加のところが多いようです)。ユダヤでは一日の開始は日没であって、土曜夕方の日没とともに日曜が始まるのであり、われわれの時間で土曜日の真夜中から始まり翌日曜日の明け方まで続く復活大祭こそが、大斎(四旬節)のクライマックスであって、最後はここに紹介させていただいた、教父・聖ヨハンネス・クリゾストモスの説教が朗読され、司祭の「クリストス復活!」の呼びかけに信徒たちが「実(じつ)に復活!」と応え、これを三回くりかえして終了します。西方教会でも、昔は復活徹夜祭と言って、復活祭はやはり土曜日の夜から日曜日の明け方まで続くものであったようですが、今は徹夜祭とは名ばかりで、土曜日の夕方に始まり20時ごろには終わってしまいます。残念ながら、毎年ほとんどの信徒たちは、キリスト復活の意味について深く考えることもなく帰宅し、翌日の日曜日のミサ後のパーティをただ楽しみにしているようです(今年はイースターパーティはありませんが)。重要なのは霊性であって、単なる儀式ではないはずですが、それでも儀式の軽視、簡略化とともに、霊性が失われつつあるような気がしてなりません。

 

*「霊界物語」によれば、スサノオ(神素盞嗚大神)は主神の地上における顕現、つまり救世神、贖罪神であって、単なる八百万の神々の一人ではなく、神道におけるキリストともいえる神格の神です。そのスサノオがなぜ高天原から追放されたのか、また、なぜ艮の金神・国祖国常立尊は根の国・底の国に封印されなければならなかったのか、そしてスサノオは八岐大蛇を退治して地上物質界の主宰神に、国常立尊も元のように地上神界の主宰神としてご再現になられる(なられた)わけですが、それについてはアダムの楽園追放・キリストの十字架と復活と同じように、単に昔に、元の神代にかえるということ以上の意味があるように思えます。