キリストの十字架  〔エドガー・ケイシー〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “……ケイシーのリーディングによると、イエス・キリストが受難に勝利したことは、その後の人々の中に効果として現われただけでなく、いわばその時点でのイエスという人物そのものの中にも勝利をもたらしたのである。それゆえに、リーディングはイエス・キリストの「完結した業」を、今日に適用せよと言うのである。「主が『すべては終わった』と言われて以来、すべての者の心の中に、心と体と精神において十字架を担うことで祝福される希望を知ろうという決意が現われるようになった」(五七四九-一〇。参照ヨハネ19章30節)。つまり、主ご自身が完璧になされたように、我々も自分の十字架によってさまざまな苦しみを味わうことで、祝福された希望を知るようになるのである。ケイシーは、聖書にはないが、イエスの言葉として次の言葉を引用する。「主に仕えることを喜ぶがよい」(五一八-一)と。

 したがって、ケイシーのリーディングでは、主の受難と、主の喜び、希望とが、表裏一体を成しているのである。主が十字架上で完全なる勝利を得られたがために、たとえ不完全で発展途上であっても、我々も今の人生にそれを適用することができるのだ。このような理解をもって次の言葉を読むことができる。「主は心を傷められた。然り、主の体は痛み弱り果てた。然り、手と足に打ち付けられた釘のところから血を流されただけでなく、心臓を貫いたあの槍からも血を流されたのだ!主ご自身のためにではなく、最後の犠牲となるために、完全な人間として血を流されたのだ……」(一五〇四-一)。この同じリーディングはさらに言う。「主、汝らの長兄、キリストを与え給うたということから、我々は父なる神が人の子らに示された愛の大きさを知ることができる」と。実際、「すべての生命は父なる神の愛が永遠であることを表わすものであり、それが個々の魂の中に表われているのだ……」。確かに我々は物質世界では弱い存在であるが、「我々は主の内に強さを見い出し、最後には我々が神と一つのものになるというかの美しい栄光に満ちた目的を体験する」。「なぜなら、我々はキリストと同様、共同相続者であるからだ。よそ者でも、異邦人でもなく、キリストと共に神の王国を継ぐ者である。このことは地上の礎が築かれる前からそうであったし、今もそうであり、これからも変わることなくそうである」(一五〇四-一。参照ローマ書8勝17節、マタイ25章34節)。

 すでに見てきたように、父なる神の最終目標は、すべての魂がそれぞれの個性を保持しつつも神に再融合することである、という概念が、ケイシーのリーディングの核をなしている。個々の実体のゴールは「自己の独自性を自覚しながらも、かの創造の諸力と一つになることである」(二六一-一五、一四五六-一)。このようなわけで、リーディングは身代り的な贖いという意味での”atone-ment”という言葉と、霊的な融合という意味での”at-onement”という言葉を交互に用いている。そしてこの二つは、神もしくは宇宙の法則という枠組みの中で働くものと考えられている。したがって、「自発的な主の行為」は「愛の法則、因果の法則、慈悲の法則、正義の法則、神との合一をもたらすあらゆる法則、魂が物質界に呼ばれたところの目的を成就する法則」(五七四九-一〇)に一致するものである。あるいは、別のリーディングが述べているように、「主はこの世におられたが、この世のものではない。しかし、物質界の法則に従われたのだ」(一五〇四-一。参照ヨハネ17章14~18節)ということである。

 霊的合一(at-onement)をこのように理解すると、「主が犠牲として自らを捧げるために、十字架を受けられた」こと対して、別の側面があることに気づく。つまり、「主はあなた(リーディングの依頼者)のために十字架を受けられただけでも、また世のため、人類のために十字架を受けられただけでもなく、主ご自身のためにも十字架を受けられたのだ!」(八七七-二九)。このリーディングは、救済による恩恵が相互に依存し合っていることを明らかにしている。したがって、イエス・キリストの救いの業は他人のために無償で与えられたものであるが、父なる神と御子の関係は決して父なる神と個々の魂との関係に取って代ろうとするものではなく、むしろその関係を回復し、一層強固なものとするように働くのである。”(P257 ~P259)

 

 “また別のリーディングは、イエスに従う者の使命を次のように述べている。「……主は、主を愛する者達に、世の救済を委ねられた。それは主が心がけておられること、主が配慮しておられること、個々の魂の活動の元となるような約束を主がなされたことを人々に知らしめることである」(五七四九-一三)。「主のまことのメッセンジャとなるには、自分を捧げることが」(五七四九-六)大切である。他に次のようなリーディングがある。

 

 主を尊敬し、主がこの世を愛されたように主を愛する者は、主が生きて、父なる神の右手におられることを世に知らしめるために、自らの心臓の血をも与えようとするだろう。さようあなた方が―― 兄弟も、友人も、敵もすべて―― 慈悲の御座の前に擁護者を持つためにである。かの擁護者は強情者のために弁護し、迫害された者の叫びを聞き次のように語られる。「耐えよ、私の子よ、耐えよ。なぜなら忍耐によってあなたは自分の魂を知り、あなたが谷間を歩き、死の陰を歩もうとも、私があなたを助けていることに気づくのだから」と。なぜなら復活を知る者にあっては、死はもはやトゲを持たず、何の力もないからである。(一一五八-五。参照コリント第一15章55~57節)”(P261、262)

 

 “すでにご了承していただけたと思うが、ケイシー・リーディングは、イエス・キリストの十字架の中心的意味を、肉体的苦痛を耐えたイエスの英雄的行為とは見ていない。もちろん、それも無視されるべきものではないが。むしろ、服従を完成させることで、自分の意志を父なる神の意志と一つのものにしたことを強調している。

 

 イエスは肉の模範となった。そして父なる神と意志を一つのものにすることにおいて、イエスはこの物質世界で最初の者となった。それゆえ、人間の視点からすると、最初の、ただ一人の御子となり、そしてあらゆる種類の宗教において、模範となったのである。ここにおいて、我々は父なる神についての真の唱道者を見る。つまり主は人間として、肉の願望を霊の意志と一つのものにすることのできる能力を、肉において示したのである。なぜなら、神は霊であり、神を崇拝する者は、霊において、真理において崇拝しなければならないからだ……。(九〇〇-一七。参照ヨハネ4章23~24節)”(P263、264)

 

 (リチャード・ヘンリー・ドラモント「エドガー・ケイシーのキリストの秘密」たま出版より)