堕天使論 〔ヤーコブ・ロルバーの「新黙示録」〕 | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・堕天使論 〔ヤーコブ・ロルバーの「新黙示録」〕

 

 “ヤーコブ・ロルバー(1800~1864)はグラーツに生まれ、そこで生涯を過ごした。1840年3月15日、彼は特殊な体験に悩まされることになる。「心の近くから聞こえる」声が彼に「ペンを取り、書き記せ」と命じたというのである。

 この日を境にロルバーの人生は一変する。彼はトリエステにある劇場の聖歌隊第二指揮者という華々しい地位を約束されていたにもかかわらず、この職に就けば「声」の命ずる任務を遂行することができないという理由で辞退してしまったのだった。しかも結婚する予定もとりやめてしまう。ピアノ教師をしながら細々と暮らす―― これが彼の残りの人生であった。

 その一方で、彼は「声」の命ずるまま、日夜ペンを握って書き続けた。その草稿は一万ページに及んだが、まったく修正箇所は無かったという。

 彼の著作には科学に関する記述も含まれているが、その知識は当時の科学レベルからは考えられないほど高度である。これは明らかにその記述の主体が人間ではない、つまり神であることを示すためのものと考えられる。事実、彼の展開する原子や分子に関する解説や天文学に関する知識は、今日の科学に匹敵するものなのだ。十九世紀当時では、この知識を評価することすらできなかったと思われる。彼の著作が二十世紀の我々に宛てられたものだとする見解があるのはこの所以である。

 とはいえ、彼の著作が「新黙示録」と呼ばれていることに示されるとおり、記述の大部分は宗教に関するものである。「新黙示録」では、人間と宇宙の起源から今日に至るまでの軌跡について解説が加えられ、聖書に示される神の真の意図が明らかにされている。そこには堕天使ルシフェルに関する記述も含まれており、まさに記念碑的大著と呼ぶにふさわしい。

 彼の記述によれば、神が神秘的な御業によって自らの内にすべてを知る精霊を見いだすとき、激しい力の緊張が生まれるという。そして神は自らに語りかける。「私は思考を自らの外に置くことによって、自らの力が達成し得るものを知ることができる」

 行動を伴わなければ神といえども制限された範囲内でしか自らを知ることはできないという。行動を通じて自らの力を知り、そこに喜びを見いだす。これは芸術家が自らの作品を通じて初めて自らの内に秘められたものを知り、そこに喜びを見いだすのと同じである。だからこそ神は媒体となる存在を創造し、次のように自らに向かって繰り返し語りかけているのだ。「我が内に永遠の力が眠る。だから存在者を創造し、それにすべての力を与えることにしよう。そうすればその存在者が内包する力によって、私は自分自身を知ることが出来るのだ」

 

 こうして総ての力を与えられた精霊が創造された。この精霊こそルシフェル(光をまとうもの)であった。この名の由来は容易に理解されることだろう。ルシフェルは自らの内に認識の光を生み、いと高き精霊として内なる魂の両極性を十分に理解していたのである。

 自らの内に神に反抗する極が存在していることを十分に認識していたルシフェルは、神性を奪取しようとくわだてる。このとき彼は自分自身を無限の存在とみなすという誤りを犯している―― 創造されたものであるかぎり有限なものでしかありえないにもかかわらず、しょせん有限なるものに無限を理解させることは不可能なのだ。ついに誘惑にたえきれず、彼は神を虜(とりこ)にしようとした。その結果、地位を失い、神の好意を失った彼は、ますます誤った衝動に突き動かされ、他の創造物をそそのかして徒党を組む。かくして天界の闘争―― 善と悪との分化―― は始まったのだ。結局、神はルシフェルに与えた力をすべて取り上げることになる。ルシフェルはその徒党とともに生き残ったが、その能力と力のすべてを失った。

 もちろん問題は残った。この堕落したものたちをどうするかという問題である。神はルシフェルとその一味をすべて滅ぼし、改めて第二のルシフェルを創造すべきなのか―― しかしそれは、完全な精霊の創造が不可能である以上、同じ過ちを繰り返すことにはなるまいか?

 ルシフェルの自覚を促すためならば、取るべき道は一つしかなかった。ルシフェルの堕落が過ちによるものであるならば、いかにして彼にその過ちを贖(あがな)う機会を与えたものか?神の英知が彼の堕落の可能性を予見できなかったとはどういうことか?

 

 ルシフェルの謀反ののち、神が意図した物質世界の創造について、「声」はロルバーに「水晶のたとえ」をもって説明している。水晶はひとたび結晶してしまえばもはやその本質を変えることはできない。水晶はその本質に従って長斜面体、六面体、八面体などさまざまな形に結晶する。もし水晶が純粋なものでなければ、熱(愛)によってこれを溶かし、愛の熱波がひいてから再結晶させねばならない。これは人間の意思の解放についても同じことがいえるだろう。こうして純粋な水晶を産み出すことができる。賢明な化学者であれば誰でも純粋な水晶を結晶させることができるのだ。そして、「声」はロルバーに次のように語った。

 

 見よ、私は賢明な化学者である。私は不純物―― すなわちルシフェルとその追随者を愛の温水の中で溶かし、その魂を再び結晶化させることにしよう。こうすれば純粋透明な水晶となるだろう。この謀反は鉱物と植物の創造から人間の創造へと至る過程において勃発した。ルシフェルの魂がすべての物質世界を包み込んでいる以上、その魂は人間という形をとって現出しようとするに違いない。……

 このために、物質世界は、もしくは全宇宙は、もしくは物質的創造物としての人間は生み出された。人間の内面においてルシフェルの魂はその悪意の度合いに応じて幾重にも包み込まれ、闘争、誘惑、そして苦難にさらされる。その目的はまず第一に自らの欠点を徐々に気付かせること。第二に自らの自由意志で改悛すること。……いかなる場合であっても自由の原理が第一であり、完全の原理は第二である……すべての眼に見える創造物は堕落し、物質に束縛されたルシフェルとその追随者である偉大なる霊の断片から成る。……

 見よ、私がこの横柄な天使の存在のゆえに為していることを。この天使が高慢から解放されていたならば、地球も太陽も、いかなる物質も創造されていなかったことだろう。……いまだ完成せざる子供たちの成長に、洞察と完全性が増してゆくことに、これによって発生する行動に私は崇高なる喜びを見いだす。努力により達成される完全性を見る彼らの喜びは私の喜びでもある。

 

 ルシフェルの謀反を寛大に解釈したこの神の美しい言葉、そして堕落した天使と追随者たちをその自由意志に基づいて天界に復帰させるために神が選んだ手段を称賛せずにはいられない。さらに「声」は「放蕩息子のたとえ」をもってルシフェルに関する説明を続けている。すなわち、聖書において「放蕩息子のたとえ」ほど意味のある記述は他にない……ルシフェルの名には失われた息子の要素がすべて含まれているのだ。事実、今日の人類はアダムの不運な種子を受け継いだ失われた息子だけで構成されている、といっても過言ではない。「放蕩息子」とはすべての人間を意味する……神の言葉に従って生きる者たちは贖罪を通じて生まれ変わり、失われた息子はあるべきところに帰るのである。

 

 さらに「声」は堕天使を物質界を通じて天上に帰らせる神の壮大な計画について語った。もちろん、その達成には想像を絶するほどの時間がかかることだろう。いつの日か、非物質的な地球が無限の宇宙を回り、祝福された自由な天使たちが無限の宇宙に満ちあふれ、その祝福された世界が永遠に続くようになる、という。しかし、その日がいつ来るのか、人間の思考で推し量ることはできない。仮に数字を得たとしてもそれを理解することはできないのである。

 以上の通り、ヤーコブ・ロルバーに与えられた黙示によれば、物質界の創造はルシフェルと共に堕落した精霊たちを救済し復帰させるため、神が愛をもって予見し、はからった手段であったという。物質界を通じての贖罪の道は長く険しい。しかし、最終的には神へと至るのである。”

 

            (パオラ・ジオベッティ「天使伝説」柏書房より)