酵素農法(微生物農法) 「酵素は天国の肥料」 | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 

・酵素農法(微生物農法) 「酵素は天国の肥料」

 

 “島本覚也―― 元大本滋賀主会長、元愛善みずほ会副会長、酵素の世界社社長。氏が提唱し、実践した自然農法(微生物農法)は、現在広く深くわが国の農業基盤に浸透し、静かなる変革をおこしつつある。農薬、化学肥料の大量投入によって、無残にも痛められたわが国土に生命をふき込み、よみがえらせるのは、第三の栄養素と呼ばれる酵素の力によるしかあるまい。

 氏は、昭和二十年二月、いまだ大本事件未解決の時に、中矢田農園において聖師様に拝顔の栄に浴し、次のような姓名詠み込み歌を賜った。「秋津我日のに生ひ立ちて まことの智慧や証うる」。そして同時に「みろくの世の肥料は酵素である」という、氏の後半生を決定する啓示を受けたのであった。ところで、氏が大本に心酔し、聖師様を救世主と仰ぐまでには、きわめて注目すべき伏線があった。氏は二十一、二才のころから国学の研究に熱中し、大石凝真素美翁の説く言霊的古事記解釈に共鳴し、さらに大石凝翁の高弟水野満年師に師事した日から、聖師様へのご面会にいたる必然性があったといえる。そして聖師様のお示しを道しるべに、古事記を一貫してつらぬく〝生成化育、産霊(むすび)‶の原理を農業に応用したのである。

 島本覚也氏がその基礎をガッチリと構築した微生物農法は、現在東京大学や京都大学の農学部からも注目され、その実効性が学問的に検証され、農林省も大きな期待を寄せている。滋賀県甲賀郡水口町の本部には、日本全国からはもちろんのこと、遠く海外諸国からも研修生が続々参集している。「微生物を使って汚水を真水にかえる方法を開発し、琵琶湖の水を魚の住める、そして人が安心して飲めるように浄化すること」が、氏のさしあたっての夢であった。が、その志も次男邦彦氏、三男武彦氏によって受け継がれている。”

 

  (「おほもと」昭和49年7月号 筧邦麿『信農一如の人・島本覚也氏を偲ぶ』より)

 

 

 “父・覚也が聖師様から「酵素は天国の肥料」と教えられたのは昭和二十一年、第二次大戦後の世情混沌たるさ中。戦災で故郷に帰り、山林を開いて食糧の確保に努めた矢先だった。

 蒸した米・麦に酵素の生菌を培養して、切りわら・野菜くず等で拡大するなどして研究を重ねた。

 折から世をあげて化学肥料多用の時代に入り、酵素農法一途の営農は世間の蔑視を浴びるに至ったが、大本開祖の教えに基づくとき「その本を養う」ことこそ農本来のあり方と思われた。聖師は「万有の運化の毫差なきを視て真神の力を思考すべし」と教えられている。すべての生命は大地より生まれ大地に帰る。土は生きている。その働きを最大限に生かし、頂いたお恵みをお土に反していく。この原則に立つとき、作物の質量ともに高まり、病害も防げる。環境が浄化され、健康も増進される。

 今や全国各地で同志の実践が高い成果を挙げ、国際的にも注目を浴びるに至ったが、「天国の肥料」とは、人間緒収奪によって荒廃する大地を生き返らせ、地上に天国を築く農業実践の教えであった…と、日々の営みが感謝に絶えない。”

 

 (「人類愛善新聞」昭和63年7月号 愛善みずほ会長・島本邦彦『酵素は天国の肥料』より)

 

 

 “大本農園に昭和二十一年酵素研究室がありまして、今日から申し上げますと、とても未熟な酵素肥料など作ってゐましたら、聖師がおいでになって「酵素は天国の肥料だからしっかり研究するように、研究費は王仁が出してやるから」と迄激励されました。”

 

 “終戦後すっかり生活に窮した愛知県の神官の人が、聖師様に「どうしたらよいでせうか」と御相談に見えますと「酵素を氏子に教えてやったらよい、ここで研究して帰りなさい」と申されましたので、研究室で数日間勉強しまして、氏子の農民の人に酵素を教へましたので、産土様へ氏子が喜んで参拝するようになりましたので生活が成り立ちますし、其の村は農業の改善が出来て、全く一石二鳥でした。(昭和二十一年草々)”

 

             (木庭次守編「新月のかけ」より)

 

*酵素農法(微生物農法)の創始者、島本覚也氏によって設立された、(株)酵素の世界社(本社・滋賀県)では、バイエムコーソ等の酵素食品や酵素堆肥など様々な酵素製品を取り扱っており、通販でも購入できます。また、酵素断食(ファスティング)で知られる「大高酵素」の大高登氏も大本信徒であり、北海道小樽市の大高酵素(株)でも酵素を原料とした健康食品や化粧品などを製造・販売(通販)しています。