虫けらまでも救う神 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 

 “開祖さまのお筆先に「虫けらまでも救う神」と諭されておりますが、その意義について聖師さまは、次のように教えられました。

 

 「現世における一切のものは、生物と無生物の区別なく、総て天地創造の元の神が、その存在を必要と認められて造らせ給うたものである。空気や水や土が万物生存のために必要欠くことのできないものであることは誰も知っている。しかし、それらのものと同様、一木一草、虫けらと雖も、総て天賦の使命を持っていないものはないのである。

 人は天地経綸の主体であるから、それら万物の天賦の使命が奈辺にあるかを正しく考察解明して、各々その長を活かし短を補い、美を伸ばし醜を除いて、万象その所を得さしめるよう絶えず努力精進を続けることが、神の代行者たる人としての重大なる責務なのである。

 お筆先に示されている『助ける』とか『救う』とかいうことは、結局は万物が、神から授けられた使命を、自他ともに全うし、全うさせてやることに外ならないのである。

 そして『虫けら』というものは、地上のあらゆる生物の中でも最も短命なものである。その蜉蝣(かげろう)のような儚(はかな)いものをも、その生涯を意義あらしめ、その使命を全うさせてやりたいというのが大神の御心であり、その御心を悟って、それを実践することが万物の霊長たる人の務めなのである」

 

 四十年前に、そのお言葉を聞いたときは、単に宗教的倫理観として私は理解しておりましたが、年を経るに従って、その御教えの偉大性を次第に感ずるようになり、最近に至って、この精神と実践がなくては、長年月にわたって人類が築き上げてきた総てのものが、丁度バベルの塔の如く、根底から崩壊する危険性を痛感せざるを得なくなって来ました。

 これはささやかな例でありますが、地下に住む蚯蚓(みみず)です。

 彼らは人間には最下等の動物として、さげすまれ嫌われながらも、大地の浄化のために、土壌の改善のために、孜々黙々として働き続け、神から与えられた天賦の使命を全うせんと努力しているのであります。

 人間はそれに感謝するどころか、科学と経済の名において、彼らを皆滅しようとしているのであります。

 私は「科学とは真理を追究する学問である」と教えられ、「経済とは経世済民の道である」と学んできましたが、その科学や経済が「死の川」「死の海」そして「死の土」をもたらしつつある根本的素因は奈辺にあるのでしょうか。

 文明開化の名の下に、世が悪開けに開けるに従って、人間が神の代行者たる自覚を失い、その「我よし」と「強いもの勝ち」の精神が天地に充満し、それが貧困と病患、戦争と災害の源泉となっていることを、政治、経済、科学、思想の総ての分野から「発根」と反省し、至仁至愛の大神の下、万象共栄の道に大転換を敢行しなければ、世を救い人を助けることは勿論、「罪の報いは死なり」という総ぞこないの運命を回避することもできないのではないかと憂慮される次第であります。”

 

          (「おほもと」昭和49年8月号 葦原萬象『聖者のことば』より)

 

 

・自分を支えてくれる存在への愛と感謝 〔ルドルフ・シュタイナー〕

 “キリスト教の道は、感情の覚醒を通過して行く道です。この感情は七段階にわたって呼び覚まさねばなりません。そのほかに、ただ師から弟子へと伝授される行があり、個々の弟子の性向に合わせてさまざまな行が与えられますが、不可欠なのはヨハネ福音書の第十三章を、私がこれからお話しますような仕方で体験することです。師は弟子に次のようにいいます。

 

 「まったく特定の感情を、あなたの内に形成しなければならない。植物が大地から生長してくるのを表象しなさい。植物は土よりも高次の存在だが、生長するのに土を必要とする。高次のものは低次のものなしには存在できない。もし、植物に思考することができたら、土に向かって、自分は君よりも高次の存在だけれど、君なしには存在できない、というにちがいない。植物は土に対して頭を下げて感謝するにちがいない。同じように、動物は植物に感謝しなければならない。そして、自分が霊の高みに昇れたら、自分の下にいる人たちなしにはこの高みには決して達せなかった、と自らにいいきかせねばならない。下にあるものが自分を成り立たせてくれているのだから、下にあるものに平伏し、感謝しなければならない」

 

 世にあるどのようなものも、下にあるものなしには存在できません。上に立つものは下にあるものに感謝しなければなりません。同じように、キリストという最高の存在も、十二使徒なしには存在できなかったのです。十二使徒に対するキリストの深い感謝の感情が、ヨハネ福音書の第十三章に記されています。最高の存在であるキリストが、弟子たちの足を洗うのです。”

 

      (ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」平河出版社より)

 

 

・岡田虎二郎師(岡田式静坐法)のエピソード

 

 (岡田虎二郎)“先生と木下尚江氏との関係は、静坐人の遍く知る所である。木下氏は、日露戦争後の日本において、社会主義の尖端を行く人であり、またキリスト教の牧師として著名の人であった。初めて同氏が先生にお会いした時、同氏は先生に大愛の精神を説き、世相を嘆いて社会の非を論じた。先生はこれに対して、「君は犬に吠えられるでしょう」と奇抜な質問をされた。木下氏は出鼻を挫かれ暫く黙っていたが、「私は犬に吠えられますが、先生だって吠える犬には吠えられるでしょう」と答えた。先生は「私は天皇陛下に対し奉る最大の敬意を犬にも同様にささげているから、犬も安心して吠えるようなことはない」と言われ、木下氏はこの言葉に不本意ながらその日は別れたのであった。

 翌朝先生が、静坐会場に向かわれる途中、一匹の犬が飛び出してきて先生に吠えついた。先生が振りかえると犬は急に尾をふって先生の脚下に飛んで行き、先生はにこにこと犬の頭をなでられた。そこへ木下氏が現れたので先生は「木下君の仕打ちか」と問われ、木下氏は「先生、恐れ入りました。この犬は知らぬ人を見ては吠えてやまない犬です」と答えたという。

木下氏はこの因縁で先生の門下に入り静坐人となり、一生黙々として坐り、永眠の日に令息に「良民となれ」の一言を残されて瞑目されたのであった。”

 

              (柳田誠二郎「静坐の道」地湧社より)