相応の世界 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 

・相応の世界

 

 “天体の構成や星の光度を調べるのに、大地を掘り返していても方向が違っているので、全然判るものではない。それと同様に今までの科学者というものは「物」を調べ、分析して神や霊を否定するものが多かった。神霊というものと物質とは全然方向が違うのである。東と西との差、天と地との差よりも大きさがある。物の世界は、どこまで分析していっても物である。霊素というか、或いは体素というか二元の結合、ムスビが判らなくては、到底真相は判るものでない。体素はあくまで体素であって、体素をなおも分析して究極して行けば霊素となると思う所に、既に誤りが生じて来る。若し、それが判るというならば、霊素を次第に発展させ究極させて行けば物となるかというに、そうではない。二元を帰一すれば一元というのは、神の生みだされたという意味で、一元即ち神というのであって、神の力徳とでも言うべきムスビによって二元の素が生み出されたのである。生み出され、創り出されたものを、如何に分析し研究していっても創り出したもの、即ちその根源が判然するものではない。創ったものと、創られたものとの差別があり、へだたりがある。

 神霊に対するには矢張り霊を以って対するのではなくては、物の原理を物でない霊に当てはめようとしても、それは不可能なことだ。例えてみれば、ここに水を入れたコップがある。水を霊とし、コップそのものを体あるいは物とする。そしてコップを微塵にくだいて分析して行けば、水の本質が判るかというにそうではない。水とコップとは全然別物であって、水は水、コップはコップだ。コップは水を入れる物、器であって、水によって出来ているのではない。物の世界に通ずる原理と、霊の世界の原理とは異なっているのである。だから体に対するには体を以ってし、霊に対するには霊を以ってせよと常に教えているのだ。

 顕幽一致、霊体一致の世界には、その意味で霊体一致でなくてはならない。それを神は霊だから、霊で対しておればよい。体の方は問題ではないなどというものがいるが、それは一知半解で、霊体一致の世界すなわち人間である以上、霊体一致の理に於いて生活をいとまなくてはならない。霊を重んじ体を無視してもいけない。体のみを重んじて霊を軽く見ても誤りである。心のあるところ、形式のともなうものであって、心のみ神に対していれば形式、即ち体の態度はどうあっても良いというのは間違いである。心が道義的であれば、体の行動形式も道義的でなくてはならぬ。霊は体に入り、体は霊を収め容れている器である。霊の動きは体に相応し、体の態度形式は霊に相応する。霊と体は一つではない。二元であるが、相応によって一体化と見えるのである。みろくの世は、霊界が整うのであって、現実の世界がそれに相応して整うて来るのである。神を祈り、神に礼拝していれば、現実界が一切良くなるのではない。神を礼拝し、祈りつつ、その祈りの心を容れている体の世界が現実に完成するべく努力するのでなくてはならない。手をこまねいていて、みろくの世が出現すると思うものは信仰上の痴者である。

 神は天地経綸の司として人を創り給うた。即ち人に地上の経綸をゆだねられたのである以上、人の世における善化、美化は人がなさなければならない使命を負わされている。人のなさねばならぬことをなさずして、良き世界ができるようにといくら祈っても、既に人間のなさねばならぬ、神よりの使命を放棄しているのであるから、左様な人の祈りに、‘みたまのふゆ’があるべき道理がないのである。霊体一致だ。霊魂の向上を期すると共に、体の動作形式はより美しく、より善でなくてはならない。それが信仰的の常識だ。霊にとらわれた没常識、体に堕した非常識であってはならない。霊界物語の中に示してある宣伝使の活動をよく読んで見るがよい。霊体相応の理に基づいて、時、所、位によって、すべて常識的に行動している。そしてそれに配するに、体的に堕したもの、霊的にとらわれたものが織り込まれて、正道を行く宣伝使の言動が、神の道を明らかにしている。しかもその宣伝使にも、或いは荒魂(あらみたま)、或いは幸魂(さちみたま)に優れているもの、或いは和魂(にぎみたま)、或いは奇魂(くしみたま)に勝っているものの、霊魂の動き、差別が現われている。智慧証覚に在るもの、愛善に住するものの別が、それぞれの言説となり、時所位に応じた行動となっていることに注意すべきである。

 霊界が現界に相応してくるといっても、全然異なっている形式の世界が相応するものではない。相応するには相応する形式がほぼ出来ていなくてはならない。動物霊は動物的の形式、即ち精神に相応し、天使は人としての内分が天界に向かっているときに相応してくる。それだから神界を現界に相応せしむるには、現界そのものが神界とやや形式が類似して来なくてはならぬ。そこで神は天国を地に来たらしむるために神意を啓示し、教化の道を開示するのである。そして現界に住む人間の心の中に、天界を容れ収むる形式が少しでもできれば、そこに基礎が相応して来るのである。それだから教えの無い、神の意図の啓示されていない宗教がいかに発展していっても、天国は地上に建てられるものではない。教の権威はその点にあるのであって、人智をもって人の心を導くことは危険至極なことであって、天界との相応が成り立たないのである。

 人のあり方が道義的であり、正しい道に向かっているときには法律というものでも、重大に考えられなくなるが、そうして心的の方向が失われて、体的となり、どん欲的となるに従って法律というものが強化され、それが尊重されて来るのである。法律が強化されるには、どうしても権力というものが裏付けされなくては、法が力を発揮することができない。そうなると、力が人を支配することになる。力が支配している間は天界は相応するどころか、次第に天界は遠ざかるものである。天界が接近して来るのは力よりも真理、愛善という状態にならなくてはならぬ。一言にして言えば、正しい宗教、正しい宗教情操が常識化された世界とならなくてはならないのだ。宗教が基礎となった人類文化世界が建てられなくてはならない。それだから、人はそうした世界を建てるための共通の使命、責任があるというのである。

 人類の進歩、人類の文化向上ということは、天国との接近、天界との相応に目標があるのであって、いくら人権が尊重され法律が強化されて秩序ができたからといって、それで進歩した文化の世と思うのは誤りであり、天界と相応しない現界は、永続性があるものではない。それで人々は天界と相応せしむる世を建てるべく目標を置くと同時に、それに向かったあらゆる努力が払われなくてはならない。

 神は静的の存在ではない。常住不断の活動に坐しますものだ。また宇宙万有、活動の無いところに生命も発展も無いのである如く、相応するには、人もまた活動的でなくてはならない。活動を否み、努力を怠る世界に相応はないのである。しかし如何に活動し、努力していても、神と離れた心の状態にある人には、何か淋しい足りないものがあって、次第に努力活動することが嫌になるのである。それは天界と接近する心的状態ができていないで、外分的の努力活動だからである。内分的の状態に在って努力活動すれば、益々歓喜と幸福に満たされてきて、実に光明的となる。天界と接近し、相応するが故である。”

 

       (「海潮」昭和25年7月号 大国以都雄録『相応の世界』より)