生まれ赤子の心 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 「生れ赤子の心にならねば、神の真(まこと)は分りは致さぬぞよ」(大本神諭)

 

 “身魂みがきということは、素直で無邪気で赤ん坊の心になることである。この赤ん坊の心になるには「霊界物語」を読むことだ。”

 

    (三浦玖仁子「花いろいろ 出口王仁三郎聖師側近七年の記録」)

 

 

 “高天原(たかあまはら)の最奥に於ける霊国及び天国の天人は、すべて愛の善徳を完備し、信の真善を成就し、智慧証覚に充ち居るを以て、中間天国以下の天人の如く、決して信を説かず、又信の何たるかも知らないのである。又神の真に就いて論究せないのである。何故ならば、斯かる霊的及び天的最高天人は、大神の神格に充たされ、愛善信真これ天人の本体なるが故である。故に他界の天人の如く、これは果して善なりや、悪なりや、などと言つて真理を争はない。只争ふものは中間及び下層天界の天人の内分の度の低いものの所為である。又最奥の天人は視覚によらず、必ず其聴覚によつて、即ち宇宙に瀰漫せるアオウエイの五大父音の音響如何によつて、其証覚をして益々円満ならしむるものである。大本神諭に『生れ赤子の心にならねば、神の真(まこと)は分りは致さぬぞよ……』とお示しになつてゐるが、すべて赤子の心は清浄無垢にして水晶の如きものであるから、仮令智慧証覚は劣ると雖も、直ちに其清浄と無垢とは、最奥天界に和合し得るからである。又社会的覊絆を脱し、すべての物欲を棄て、悠々として老後を楽しみ、罪悪に遠ざかり、天命を楽しむ所の老人を以て、証覚ありて無垢なる者たることを現はし給ふのである。大本開祖が世間的生涯を終り、夫を見送り、無垢の生涯に入り給うた時、始めて神は予言者として、これに神格の充されたる精霊を降し給ひ、天国の福音を普く地上に宣伝し給うたのは、実に清浄無垢の身魂に復活し、精霊をして天国の籍におかせ給うたからである。故に開祖の如きは、生前に於て已に霊的復活をせられたのである。此復活を称して霊的人格の再生といふのである。大神は人間をして其齢(よはひ)進むに従ひ、之に対して善と真とを流入し給ふものである。先づ人間を導いて善と真との知識に入らしめ、これより進んで不動不滅の智慧に入り、最後に其智慧より仏者の所謂(いはゆる)阿羅耶識(あらやしき)(八識)即ち証覚に進ませ給ふものである。之を仏教にては、阿耨多羅(あのくたら)、三藐三菩提心(さんみゃくさんぼだいしん)無上証覚といふのである。併しながら現代の人間は、其齢進むに従つて、益々奸智に長け、表面は楽隠居の如く世捨人の如く、或は聖人君子の如く装ふと雖も、その実益々不良老年の域に進むものが大多数である。” 

 

     (「霊界物語 第五十巻 真善美愛 丑の巻」『第二章 照魔燈』)

 

 

・「マタイによる福音書 第18章」

 

  そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。 
 すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた。「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。 

       

 

・聖ファウスチーナ(カトリック聖人、20世紀)の日記から
 

 「今日、ミサ聖祭の間に私は幼子イエズスを私の祈り台の隣に見た。イエズスは 一歳くらいに見えた。そしてイエズスは私に自分を抱き上げるように求められた。
 腕の中に抱き上げた時、イエズスは私の胸に寄り添って言われた。

 『あなたの胸のそばは心地よい。』

 『あなたはこのように小さいけれども、あなたが神であることを私は知っています。あなたが小さな子供として私に会いに来られるのはなぜですか?』

 『それは子供の霊魂を持つよう、あなたに教えたいと思っているからだ。あなたが最も小さい者であることを私は望んでいる。なぜなら、あなたが最も小さい時、あなたがちょうど今私を抱いているのと同じ仕方で、あなたを私の御心のそばに運ぶ事ができるからだ。』 」
  
      (シスター・エマヌエル「メジュゴリエの証言者たち」ドン・ボスコ社)