小幡(おばた)神社 (古代史の大断層秘める) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・小幡神社(京都府亀岡市穴太)

 

“雄略天皇が天照大神の霊夢に感じて、丹波の比沼真奈井(ひぬまない)から豊受の大神を伊勢の山田の地に奉迎される途次、一夜、藤原鎌足の末裔である上田家の屋敷(王仁師の生家)に、神輿(みこし)が休まれた。その時、献げられた荒稲が欅の穴にこぼれて、稲穂が生じた。庄屋はそれを神の御心として「千本」と命名し、日本各地へ播布した。そこから、この地を穴穂の里ととなえ、のち穴太の里とよぶようになった。

 この穴太の里の産土の神、穴穂の宮が小幡神社で、開化天皇を奉祀する延喜式内社である。

 この宮は、もともと丹波の神山といわれた霊山に鎮座されていた。そのため、この山を高御座山(たかみくらやま)といい高倉ととなえ、遂に高熊山と転訛してしまった。また、神山の名は、のちに亀山となったともいわれている。

 この地方には、金の玉と鶴についての伝承が多いが、ここにも「朝日照る夕日輝く高倉の三ッ葉つつじの其の下に黄金の鶴小判千両いけおいた」と名も知らぬ鳥が鳴いて里人に告げたと伝えられている。小判というのは、小幡(こばん)ということで、小幡神社に神徳霊威を秘めおかれたことらしい。

 小幡神社の祭神・開化天皇は、天照大神の神勅のままを実行して、祭政一致、同殿同床で現津御神(あきつみかみ)として君臨された最後の天皇である。

 古代史の大断層に坐す天皇であって、王仁師は「神武天皇から綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元それから開化天皇までの九柱の天皇は、日本各地に住居された同格の天皇であって、日本古代史は、九柱をタテに並べて千年のあやまりを犯している」といわれている。

 開化天皇の本名ワカヤマトネコヒコオホヒヒノミコトは、稚日本根子彦大日日命とも書き、言霊学からは「新日本建設大本皇威発揚の神言霊」となり、新日本建設の神様である。

 安田徳太郎氏は「レプチャ語では、開化天皇は日本最初の大王となる」としているのは興味深い。神武天皇の時代に、開化天皇は、高熊山に宮居をさだめてましましたのである。

 その御子・崇神天皇が、伊勢に別殿をまつり、御娘子をして奉仕せしめ、租税制度を実行されて、日本も和光同塵の時代に突入することになった。その意味で、開化天皇は、日本本来の姿ということになり、古代の大断層の天皇である。こうなると、日本の神代史の謎はひとり開化天皇にかくされているといえる。

 社伝によれば崇神天皇十一年に四道将軍の一柱、丹後道主命が皇祖父の開化天皇を奉祀され、元明天皇の和銅元年には朝命により社殿が建設された由である。

 また丹波の神山高熊山は、武烈天皇のとき、天皇に子供がなかったために、絶えんとしたので最も血の濃い穴太の皇子に皇統を継承してもらうために、朝廷から穴太に迎えが来た。そのものものしさに穴太の皇子は懼然(おそれおののいて)高熊山の中に隠れて一生をおくらせ給うたという皇統の絶えた話をかくした神山である。武烈天皇の方では、仕方なく枝の枝である人をさがして皇統を継がしたのが継体天皇である。

 小幡神社の元宮の高熊山にはここにも日本史の大断層の秘話がある。小幡神社にもまた歴史の大断層が秘められているのである。北陸の郷土史家は、「武烈天皇までは丹波王朝で、継体天皇から九州にゆかりある日本海王朝」と主張しているのも大変興味深い・

 

 大本歴史の上からも穴太は救世主の再誕の秘話がかくされている。王仁師は、明治三十年、小幡神社において「大本三大学則」を神授され、神政復古、人類愛善実践の大願をたてられた大本神教の発祥に因縁深き土地である。

 王仁師は、小幡神社の神教を仰ぎ、これを五十年間にわたり三界の神と人に伝達された。それは新しい日本、世界を建設する神教であった。古い日本が一旦亡びたときに新しい天地一体、世界一体の時代を招来する神様である。

 王仁師は、「開化天皇のことが判らねば霊界物語をどんなに読んでも判らない。私が開化天皇の宣伝歌を歌って全国を廻らしたのは大きな意義を持っているのだ」と教えられた。開化天皇の歌とは、

 

  若人の奮い起つべき時は来ぬ 若き日本の春は近めり

 

の王仁師詠の和歌である。

 

 小幡神社には、円山応挙筆の見事な絵馬がある。また、王仁師献納の鉄の絵馬も掲げられている。この鉄の絵馬は、王仁師が自らの更生記念として同社に献納されたものである。”

 

     (「人類愛善新聞」昭和52年1月号 『丹波みて歩き』)