薭田野神社(京都府亀岡市)〔古事記発祥の地〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “出口王仁三郎聖師が、古事記の口述者、稗田阿礼の出生地といわれた薭田野の里の佐伯にある稗田阿礼を祭祀したと伝えられてきた「稗田野神社」は、祭神は保食命、大山祇命、野椎命の三神となっている。

 社伝によれば、元明天皇の和銅二年、当国々司従五位上大神朝臣狛麿、聖旨を奉じて五穀守護神を丹波国久浪太(桑田郡)盆地の中心、佐伯に創建すと伝えられている。

 ここには、丹波佐伯の燈籠祭といわれる古式を伝えた神秘あふれる祭典がある。この祭典は、大祓祝詞の中にある天津金木の神秘を伝えたものである。

 近江の国以西とくに丹波の国は田場といわれて、天照大神が青人草の食いて生くべき五穀をそだてさせられた、といわれる因縁によって、御即位式の主基田とえらませられた土地といわれるのが、薭田野神社の境内のおこりである。境内をめぐる池には、近年まで阿寒湖と同じマリモが自生していたが、汚水によって消滅したのは惜しい。

 隣郡の曽我部町穴太(穴穂)が、古事記、日本書紀に名がのぼっており、丹波における農耕地帯の中でも有数の沃野であるこの地に、食物の守り神、保食命たちがまつられていることには理由がある。五穀の中でも、古代では稗が主食であった時代であるから、五穀の守り神を薭田野神社にまつったと考えられる。

 祭神が古事記の口述者の稗田阿礼であるとの伝承は、俗説とされているが、王仁師は、この地が稗田阿礼の出生地であると述べられると同時に、次のようなことも言われている。

 

 「稗田阿礼の名のおこりは、天武天皇が、記憶力抜群のこの青年を『稗田のアレを呼べ』と詔(みことのり)されたので、勅命を自らの名として稗田阿礼と名のり、天皇に仕え、修史事業に従事することとなったところにある。

 ところが阿礼は、天皇が神勅を仰がれる天津金木をひそかに持ち出して薭田野に帰ってしまい農事に従事しつつ金木の研鑽につとめていた。そこで、宮中では、使いを派して阿礼を捕らえて処刑せんとしたが、天皇は処刑の代わりに、古事記の口述を命ぜられ、ここに日本史の大原典・古事記が大成したのである。したがって、古事記と天津金木とは一体のものである。阿礼はフロシキの中に金木を入れて常に腰帯に下げて農事をはじめすべての行動をしたので、土地の人たちは『稗田阿礼の大金玉』というほどになった。それは実は縮製された天津金木だったのである」

 

 王仁師は『亀岡(亀山)』と穴太(高熊山)と大井の三角地点の中が、本当の言霊を発し得るので、音頭を正しく歌えるところである。一辺4キロ(三六丁)正三角の中が言霊の国である』と教えられている。その三角点の外辺から阿礼が出生し、古事記が完成することとなったわけである。

 崇神天皇が三種の神器を御娘子に託して奉斎されたのが伊勢神宮の嚆矢である。言霊の秘伝と天津金木などを韜造(とうぞう)されたのである。薭田野の郷は、この神秘を体得した稗田阿礼の誕生地である。この神社に阿礼を祭祀したとの伝承はたしかなものと思える。

ところで、この神社の氏子であった大石友次郎氏は、王仁師の話を無条件で信頼して明治三十一年の清水行きをたすけ、王仁師を一生信頼した人である。

 崇神天皇によって韜造された三種の神宝といわれた惟神の大道「言霊の学び」は、王仁師の祖母うの刀自の生家、八木町生まれの中村孝道(有栖川宮御殿医)によって発掘されて世に出たが、うの刀自を通じて王仁師に伝えられ、ここに言霊学は大成され霊界物語の名で世に出されることになったわけである。”

 

      (「人類愛善新聞」昭和51年12月号 『丹波みて歩き』)