「雛型経綸」(国家存亡の危機、「赤山を死守せよ」) | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・大本島根本苑(松江市)『赤山』をめぐる攻防

   「赤山を取られたら日本は永久に占領されたままになる」

 

 “……大本は然り、島根本苑も弾圧の歴史を抜きにして語ることは出来ない。資料によると事件当時の苦難の模様の一部が次のように記されている。

 「…昭和十年十二月八日、第二次大本事件勃発。三上氏は時の島根別院理事長。別院内に住んでいたこともあって、別院の管理者となって事件処理に当たった。翌年取り壊しの命令を当局から受けた。名目は自分が責任者になっているにせよ、所有者である聖師様の委任がなくしては勝手にできないと拒否した。当局もこれを認め、出口の意向を聞くようとりはからうということで、一週間ばかりで聖師様の委任状が届いた。三上氏は聖師様のご真情を聞かねば委任状を鵜呑みにできぬと、ひそかに三代様を訪ね、お指図で山科刑務所に向かう。この時の模様は次の通りである。

 

 ――これは、五、六月の頃のことであった――

 聖師 『売ったか』

 三上 『売りませぬ。それでお伺いに参りました』

 聖師 『売ったら大変であった。よかった、よかった。あれは英吉利(イギリス)人のものを

     買ったのだからな』

 と非常にお喜びになった。

 

 このご本意を承って、建造物の撤去はやむを得ぬとしても、土地だけはどうあっても保全せねばならぬという決心ができたという。聖師様の委任状というのは当時弁護にどうしても七千円の金が入用であったが金策がつかず、赤塚弁護士から

 『出雲に赤山という財産がある、あれを売却したら。』との勧告があったので、聖師様は不本意ながら委任状をものされたということもわかり、三上氏は帰松してから、厳重な監視の眼をくぐって、百方奔走して五千円を調達して届けたという。

 

 事件解決後、三上氏が後輩に熱っぽく話していたのは『たとえ綾部・亀岡両聖地が取られても止むを得ぬが、赤山を取られたのでは、日本は永久に起てぬ。決して取られてはならぬ』という聖師様のご意向で、赤山保全には決死の覚悟――日本の存亡をかけての覚悟――で当たったと話していた。…」

 

 右はよく知られた話ではあるが、事件護教史の貴重な一コマである。

 その後、いろいろな経過をたどり、結局建造物は破却されたものの、土地は事件当時の管事の一人が買い受けることとして他に売られずに済んだ。しかし、何分にも広大な宅地で多額の税金問題が浮上、山林に地目変換を計ろうとしたこともあって、税務署間との話し合いがはかどらず、手続きが延び延びになったまま事件は解決し、依然出口王仁三郎名義のままで保全され、土地譲渡の型を残さずに済んだのも神の深きご摂理、ご経綸であろう。いずれにしてもこの大本事件はその後の日本の運命の型となったことは言うまでもない。”

 

           (「愛善世界」1994年12月号)