葛兆光 著
橋本昭典 訳
東方書店2020

 

いきなりだが、皆さんから見て、「台湾は中国の一部」なのだろうか。

 

中国大陸で暮らしていると、このことについて疑問を感じる余裕がないほど、一方的な意見の押しつけられる。だからぼくも、大学に入るまでは深く考えたことがなく、大学三年生のときに台湾に旅行に行っていなければ、ずっとなにも考えずにすごしていたかもしれない。

 

旅行はよくある観光ツアーのように、観光バスと添乗員によるガイドで台湾を一周するものだが、あの頃は観光客が大陸から飛行機で台湾に直接行くことがまだできなかった。ぼくたち一行は中国各地から深圳に集まり、そこから香港入りし、さらにタイで2泊した後、ようやく台湾へと向かったのである。さらに奇妙なことに、台湾上陸時はパスポートにハンコが押されず、ただビザ代わりの紙切れを一枚渡されただけで、そして現地の添乗員はぼくたちにこういった。

 

「この紙は台湾滞在中、肌身離さず持っていてください。しかし、帰国する際に香港から深圳に通関するときは、出入国審査官に見られないようにしましょう。さすがに帰国できないことはないと思いますが、不要なトラブルを避けるためです。」

 

どう考えても、同じ国の内部を行き来する手続きではない。かといって、主権国家同士の渡航でもない。そんな奇妙な旅行は、親切なアドバイスのおかげもあって、グレーゾーンでありながら恙無く終わった。道中観光地に着くたびに添乗員が現地の警察に報告しに行き、参加者は全員まだいます、失踪したり亡命したりした人はいませんと伝えるのがやや煩わしかったが、それを除けば順調で楽しい旅だった。

 

日程が厳しく管理されたツアーだったため、気軽に現地の一般人との交流を楽しめないのが残念だったが、それだけに、元議員秘書だったという添乗員の言葉が、いわゆる台湾市民が国家をどのように認識しているのかを知る貴重なチャンスとなった。彼が補佐していた議員は国民党出身で、道中雑談で政治の話になると、当時政権を握っていた民進党批判のオンパレードになった。移動中の暇つぶしに台湾の映画を何本も流してくれ、その中には国民党が日本の侵略に勇敢に抗戦し、さらに蒋介石は偉大なる指導者だと礼賛するものがあった。固有名詞を「共産党」と「毛沢東」に入れ替えれば大陸のものとそっくりな内容に、ぼくは「さすが同じ中国人、考えることが一緒だ」と笑いだしてしまい、それを添乗員に伝えると、彼は意外にも「そう、同じ中国人なんだよ、同胞同胞」と同調してくれた。

 

しかし、添乗員は結局、「同じ中国人だからいずれ統一しましょう」とは一度も言わなかった。随所に仲間意識をのぞかせ、中国各地の出身者がいるツアー客全員に好かれた彼だが、いざ両地域の統一や政権にかかわる話題になると、すぐに話題をそらし、「同じ中国人だけど、同じ中国ではない」と暗に言っているかのようだった。国民党の忠実なる支持者がこの態度である。それなら民進党の支持者が独立を主張しても当然だとぼくは納得し、そして耳にタコができるほど聞いてきた「台湾は中国の不可分の一部」という主張が、いかに一方的なことなのかを、初めて肌で感じた。

 

「中国人」であることは認めるのに、「中国」ではないとほのめかす添乗員。この一見すると矛盾する態度が、実は中国をめぐる語りの問題の核心をついているーー「中国」とは、果たして政治的、地理的な概念なのか、それとも文化的、歴史的な概念なのか、ということである。「中国人」であることを認めたときの彼は、明らかに後者に立脚していたが、「中国ではない」と考えた彼は前者に依拠していた。そうした解釈の変更を、彼はいとも自然にやってのけ、そしておそらく台湾では大量な人がそのように思っている。この現象の裏にある問題を本書の言葉で言い直すと、次のようになる。

 

本当にこのような同一性を持つ「中国」が存在するのだろうか。「中国」と呼ばれるものは、想像された政治的共同体なのか、それとも同一性を持つ歴史的存在なのか。数多くの民族やいくつもの王朝の歴史を内包したこの空間を、「中国」という概念で包含することができるのだろうか。地域間の差異を単純に同一の「中国」に帰結することが可能だろうか。(注:引用は中国語をもとに翻訳。日本語版の表現と異なる。以下同じ)

 

こうした問いは、ぼくが台湾訪問で感じるまでもなく、学問の世界ではかねてより提起されてきたもので、それらの一つ一つを、葛兆光氏はこの本で扱っている。たとえば中国の近隣である日本の研究者は、早くから意識的または無意識的に、「中国」という自明と思われてきた概念を突き崩す可能性を孕む研究を行ってきた。葛氏は日本の研究に大変明るく、日本の学者による中国の地方史研究が、「特定の思想と文化的現象が、中国全体ではなく特定の区域に限定されたものだということ」を明らかにしたと指摘し、「アジア史」研究が「それぞれの国民国家の境界線を乗り越え、国家中心主義と西洋のヘゲモニーに抵抗する可能性を開いた」と評価する。このほかにも、葛氏は台湾の学者による台湾アイデンティティの追求、元や清などの異民族が中国を統治した時代を中国史と見るかどうか、「想像の共同体」論など国民国家そのものの根拠を揺り動かすポストモダンの歴史学の展開など、実に広範な議論に対し応答を試みており、しかも空疎な理念を語るのではなく、史料を使った議論を行っている。

 

「空疎な理念」を語っていないと書いたが、葛氏に理念がないわけではない。むしろ、「中国」という概念を疑問視するこれだけ多くの角度に対し、有効な応答を行うことができたのは、彼が確固たる理念を持っていたからだ。その理念を、彼は序論で次のように開陳する。

 

中国の国民国家の形成にかんして、私は固執とさえいわれかねない考え方を持つ。すなわち、歴史的に見て、境界=明確な領土範囲を持ち、他者=国際関係を持つ国民国家は、中国では宋代以降、異民族国家の台頭によって漸進的に形成された、ということである。この国民国家の文化的アイデンティティと歴史的基盤はたいへんに堅牢で、生活倫理の同一性は広く深く浸透し、政治権力が管轄する空間も明確だ。(中略)その空間は外周がやや曖昧で、変動することもあるが、中心は比較的明晰で安定している。王朝は盛衰を繰り返すが、歴史は終始明確な脈絡のなかで進展してきた。文化は外来の文明からの挑戦を受けたが、相当程度に安定し、重層的に蓄積されてきた伝統を終始持ち続けた。

 

こうした理念のもとで、葛氏は思想史、外交史、古代地図など多岐にわたる史料を駆使し、「中国」が歴史的にどのように形成されたのかを再検討した。その議論は説得力に富むだけでなく、なにより素晴らしいのは、文章にもったいぶったところがなく、すこぶる素直な論理展開ですらすらと読めることである。学術書であるにも関わらず、大学生以上の知識があれば誰にでも問題なく読める。間違いなく名著である。

 

しかし、鋭い読者や現代中国に関心がある方なら、上の理念だけからでも、葛氏の問題点の指摘することができる。「宋代以降、異民族国家の台頭」と言っている以上、葛氏が考える中国の国民国家は、あくまで漢民族が中心となる。したがって、「歴史的基盤」と「生活倫理」も漢民族のものだ。宋代ならそれで問題ないかもしれないが、葛氏がやろうとしているのは、歴史をたどり直すことで今の中国を再定義することである。その試みのために漢民族中心主義と思われかねない言説を建てることが、今の多民族国家の中国にとって果たして有効か、そして、果たして正当だろうか。

 

その疑問に対する直接の返答は、この本には見られない。もしかしたら、漢民族が歴史的に中国という空間の中心を占めていたことが事実であり、今現在もその状態が続いているため、上の疑問自体が成立できないかもしれない。それでも、多民族の問題を葛氏の議論持ち込む可能性がないわけではない。たとえば、近代以降の中国について、彼は次のように定義する。

 

中国は、帝国から国民国家にシフトしたのではない。そうではなく、境界なき「帝国」の意識のなかに境界のある「国家」観念が含まれ、境界のある「国家」への理解のなかに、境界なき「帝国」への想像を内包したのである。近代の国民国家は中心としての帝国の変質として出来上がり、近代の国民国家の内部に中心としての帝国の意識がまだ残されている。したがってここに見られるのは、両者が絡み合い共存する歴史である。

 

中国に警戒感を持つ読者なら、あるいは「境界なき」といった言葉から、昨今の中国の拡張主義を批判し、中国脅威論を再度持ち出すかもしれない。確かに今の中国はひどい、しかし、そう思う方こそが、葛氏が本書で展開した議論を熟読玩味すべきである。本書が引用した史料からわかるように、帝国としての中国はいわゆる西洋の帝国主義のように武力による拡張を目指したのではなく、「境界なき」はどちらかといえば、自身の文化に強烈な自信を持ち、それによって他者を感化する姿勢と信念にあらわれていた。中国大陸という空間に暮らす異民族はもちろんのこと、近隣の朝鮮や日本も感化の対象であり、西洋の使節に対してもそうしようとした。その姿勢を今の中国が持ち続けているのだとすれば、当然批判されるべきだが、少なくとも武力や経済の対立による抑え込みでは的外れであり、西洋的な人権概念で道徳的優位性に立つのも逆効果である。そのようなやり方は中国の現政権が固執する論理と対立する論理をせり上がらせ対立を深めるだけで、相手の論理を解体することには到底至らない。真に批判されるべきは、現政権がなおも中国の古代史を振り返ることで、漢民族を超えて「中華民族」を統合する言説を編みだすことであり、その手法の背後に潜む一元的な「文化」への幻想である。

 

そうした批判は大きな危険をはらむことになるだろう。最初に書いた台湾の添乗員のように、彼とぼくをつなぎとめているのは、ごく自然のものと思われていた文化としての中国への共感だけだった。その文化をも批判しようとするのだから、中国の論理だけではなく、統合された国家としての中国をも解体に導く可能性だってないわけではない。それでも、リスクを承知した上で、前に進むしかない。なぜなら、中国は今の状態から変わらなければならないと思うからだ。葛氏はすでにその精緻な仕事で示唆に富む方向性を示してくれた、求められるのは、彼の構想からさらに邁進することである。