幼い子が赤信号なのに道路に飛び出してきた。

その場にいた中学生がとっさに子どもを助けたが、自分が車に轢かれてしまった。

子どもはかすり傷を負っただけだが、中学生は下半身まひとなり、車いす生活となってしまった。

 

もし、私が子どもの親だったらどう思うだろう。

我が子はほぼ無傷で助かったが、よその子の一生が大きく変わってしまった。

どんなに苦しいだろう。どんなに詫びても、その子はもう自力で歩けない。

一生、賠償するとしても、お金では、この苦しみは解決しない。

もしかしたら、車いす生活になるのは我が子のほうがよかった、とか思ったりしないだろうか。

あるいは、我が子が死んでも、中学生は無事でいてほしかったと思ったりしないだろうか。

そして、もう死んで、この苦しみから逃れたいと思ったりしないだろうか。

 

だけど、そうじゃない人も、相当数いるんだろうな。

うちの子は無事でよかった。

助けてくれた中学生、ありがとう、そんなことになっちゃってごめんね、程度。

最初は衝撃でも、わりとあっさり苦しみを忘れられる人。

 

もう死んでしまいたい、などと書いた私も、この事故から何年も経ち、我が子はすくすくと大きくなり、事故などなかったかのように成長し、進学し、結婚し、子どもを産む。

そういう幸せな日々を過ごすうちに、苦しみは徐々に薄まっていく、つまり苦しみを忘れていってしまうのではないだろうか。

 

罪の意識は、人によって深さが違う。

そして、その意識に翻弄される月日の長さも、人によって違う。

 

今日、古いサスペンス劇場を見て、そんなことを考えた。

中学生をひき殺してしまった男は、被害者の親に「もう二度とハンドルは握らない」と約束した。

そして服役。きちんと刑期を終え、出所した。

だが、被害者の親は、偶然、仕事中のその男を見かけてしまった。

その男は、車を運転していた。

被害者の親、そしてその男。

両方の気持ちを思うと、察して余りある。

その男が、実は悪いヤツだったことで、皮肉にも救われたが。

 

 

 

 

 

 

罪思う 深いか浅いか いつまでか

鞠子

 

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