仕事がらみで、学校におけるいじめの調査に関する文書を読んだ。

 

某学校の某部でXという出来事があった。

生徒A(←いわゆる被害生徒)は、Xを「自分に対するいじめだ」と主張している。

生徒B、C、D(←いわゆる加害生徒たち)は、Xを「部の存続、強化のため、やむを得なかった」と主張している。

「Xという出来事が起きた(出来事を起こした)」ことは、誰もが認めているのだ。だが、生徒Aとそれ以外の生徒の受け止め方は全く違い、どれだけ話し合っても平行線のままをたどっている。

 

うーん、これはどうすればいいのか。私自身、頭を抱えてしまった。

この問題、「各者の受け止め方」以前に、もっと深いものを抱えているだろうなと思うと、余計に気が重くなる。

 

生徒Aはいじめだというものの、立場上、Bたちが主張する「部のため」という思いを全面否定しているわけではないのではないか、と思うのだ。つまり、Bたちの気持ちも「分からなくはない」。

逆にBたちは、「部のため」とはいうが、Aを苦しめてやれという思いがゼロだったかといえば、そうではないのではないかとも思うのだ。つまり、心のどこかに「いじめだという認識はあった」。

そして、この出来事Xに至るまでのあいだに、AとBたちの間に大小さまざまな問題が起こっており、それが蓄積していたに違いないと想像できる。

結局このいじめ問題は、いくら調査をしても解決しない、誰もが納得はしない、と思う。

 

読んだ文には、生徒Aの両親が再調査を希望している旨が記してあった。

だが、対応した人々は、これ以上、調査しても結論は平行線のままだと結論づけていた。

話を聞いた有識者の一人は、「(再調査をするかどうか)私は結論が出せない」と言っていた。

 

じゃあどうすればいいのか。

どこかで「折り合う」あるいは「妥協する」。被害を感じている側にとっては耐えがたい結末だろうが、それ以外に私は思いつかない。

しかし、考えてみれば、いじめ問題のみならず、この手の難しさを包含しているトラブルのほうが圧倒的に多いのだ。

そう、決して解決しない。

折り合うとか妥協するとか、生きていく上でそれは決して避けて通れないのだと、同時に、自分自身で心の決着をつけるしかないのだと、文書を読みつつ自分をふりかえりつつ、つくづくかみしめた。

 

 

 

 

 

 

許せない あの日のことが よみがえる

鞠子

 

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