慶大・武蔵野大の前野隆司教授が「うまく使えば人生幸せ」と言っていた。
使うのはAIだ。
教授によれば、「古代ギリシャでは、労働を奴隷に任せ、一部の人が芸術に興じ、すばらしい哲学や文学を生み出した。同じように、自動化できる仕事や家事などをAIがやってくれる分、自由な時間が増え、人間本来の感性や創造性を生かし、自分らしい生活を送れるようになるのではないか」。
…って、そうかなあ。
私は、手放しにはそう思えない。
まず、例として挙げられた奴隷の件。
もちろん、タラレバの話になってしまうが、古代ギリシャで奴隷がいなかったら、すばらしい哲学や文学は生まれなかったのだろうか。
人間に差別とか搾取といった概念がなかったら、もしかしたら、もっと違った哲学や文学が生まれていたかもしれないではないか。
そもそも、奴隷とAIを同列で比較することに、生理的に違和感を感じる。
それから、これは実感。
私が社会人になったころ、職場には電話とファックス、ワープロ、それからポケベルしかなかった。それでも十分、仕事はできていたのである。それどころか、今よりもっと、物理的にも精神的に余裕があった。
もっとさかのぼれば、電車も車もない時代だって、生きていられた。今の私たちよりもっと豊かだったような気がしてならない。
前野教授は、デメリットも挙げている。
一握りの巨大IT企業や専制国家がAI開発を主導し、ヒト・モノ・カネを独占した場合、国家間や人々の間で格差がますます広がり、仕事を失った人々が支配されるという未来もあり得ると警鐘を鳴らしている。
何を言っても、いまさらAIのない世界に戻ることは不可能だが、私は前野先生以上にAIに対する危機感と不信感が強い。
少なくとも、私自身、AIのおかげで自由な時間が増えたとは思っていない。
私の周りにいる人々を見ていてもそう。
むしろ、携帯すらもっていない人のほうが、なんだかとっても平和に見える。
でも、それではもはや、生きていけないところまで来てしまっている。
水の中 電子音など ない世界
鞠子