ダブルワーク先の仕事に手こずり、ランチタイムを逃した。
気がついたら、もはや2時半。
そんなにお腹もすいてない。でも、今日は郵便局に荷物を取りに行かなきゃなんないし、母の納骨堂にも行かなきゃなんないし、パン屋もスーパーも…
それに、猛暑のときほど、食べなきゃ、と思うし。
じゃあ、何を食べるか。
麺類、サンドイッチ、カレー、定食、肉類、etc.etc.
決まらない。
あれこれ考えているうち、はたと気づいた。
「そういえば毎日、選択と賭けの連続ではないか」と。
ココイチに行くかコメダに行くか、サがミに行くかやよい軒に行くか。
今、この瞬間、選択を迫られている。そして、次の瞬間、車で行くか、歩いて行くかの選択を迫られる。あるいは、家にあるもので適当にすますかという選択もある。
パン屋とスーパーは最後にしたいので(←買ったものを車の中に放置できないので)、納骨堂、郵便局に先に行くと、一番無駄のないルートを「選択」するとコメダ、ということになる。
これ、別の見方をすれば、「賭け」だ。
コメダに行ったがゆえに、交通事故に遭うかもしれない。逆に、何かトンデモな発見があるかもしれない。
…とこんなふうに、意識する・しないは別にして、人生は選択と賭けの連続。
そうして、100年弱の年月を終える。
ところで、今回のコメダ選択は失敗した。
コメダは、置いてある新聞の種類がやたらと多く、これを読むのも楽しみの一つ。
ところが後ろに、やたらと大きな声でしゃべる外国人男性2人組と、決して大声じゃないのにやたらと通る声で話す保険外交員とその客夫婦という2テーブルに気を取られて、ゆっくり新聞が読めなかった。これならサがミに行って、1紙しかないけど、うちで取ってるのとは違うその新聞をゆっくり読めばよかった。
そうそう、「選択と賭けの連続」、そして「成功と失敗の連続」。
生も死も 選択そして 大博打
鞠子