吉村昭『少女架刑』を読んだ。
昨日も、以前も、それこそ何回もここに書いたが、私は「死」よりも「死に至る過程」が怖い。
つまり、問題なのは「死に至る過程」だけなので、死んだあと、葬儀なんかどうでもいいし、お墓もいらないし、骨がゴミに捨てられようが埋められようが、全然どうでもよい。
だがしかし、それは、「死んだあと、何も感じない」ことが前提だ。
死んだあと、火葬場で「熱い!死んじゃう!助けてくれ!」などと思うことは絶対ないと信じているから、死も死後もどうでもいい。
だから、『少女架刑』には驚愕した。
死んだ若い女性が、呼吸が止まり、病院で解剖され、焼かれ、骨になるまでの一部始終を「自分の言葉で語る」のである。
まるで潜入ルポみたいに。
そこには、たとえば痛いとか熱いといった身体的な感覚を示す言葉、つらいとか悲しいといった心情を表す言葉は基本的にない。ただ、たんたんと、時系列に沿って死体となった以降の自分の変化を語るのだ。
身体的な感覚や心情が描かれるのは、彼女の周りにいる親とか病院関係者とか友人知人といった生きた人ばかり。
それがまた、死んだ彼女のルポに比べると、世俗にまみれ、お下劣な些事ばかりに思えてくる(実は、日常、普通に目にしているようなことばかりなんだけど)。
死んでもこんなふうに周りが見えるのだろうか。
いわゆる痛みは感じなくても、自分がメスで切られ、内臓を出され、焼かれ、骨にされるところが見えるんだろうか。
だとしたら、これは怖い。「死に至る過程さえよければ」では済まない。
とはいえ、どこのどんな偉い人に聞いても、誰も真相は語ってくれない。
絶対的に私を愛していたはずの母でさえ、いくら納骨堂の前で問いただしても、決して教えてくれない。
もちろん私も、そうなった後、あなたに真実を話すことはできない。
死も生も 今日も明日も 紙一重
鞠子