この前、身内の法事があった。

身内、といっても、本来なら私が参加する必要はないと思うのだが、いろいろややこしい事情があって断ることができない現実。

やむを得ず、貴重な休日を費やした。

 

天理教の法事。

よくある葬儀や法事と形式が違う。

式中、延々と繰り返される同じフレーズを聞き、事前に教えてもらった参拝(というのか?)の仕方で粛々と頭をさげながら、ふと頭上から俯瞰する冷静な私がいた。

 

…この状態、第3者が見たら、めっちゃ滑稽だよな。

 

同じ時間、同じ方向に向かって礼拝するという宗教があるが、これは何となく、やっている人たちが心からその宗教を信じているからやっているように見える。

それに比べてこの法事。

参加している人全員、天理教信者じゃないのである。

おまけに、法事の主人公(←つまり、亡くなった人ね)も天理教の信者ではなかった。その両親が信者だったというだけで、幸か不幸か両親は息子たちに天理教を強制しなかった。

つまり、完全なるセレモニーであり、実は当日突然、仏教、禅宗、キリスト教等々、どの宗教で営まれても同じようなものだったのである。

 

それよりなにより、私は、法事の主人公が好きじゃなかった。

もちろん、「亡くなる」のは喜ばしいことではないが、かといって悲しみに暮れることもない。

 

こういう式典って意味があるのか。

こんなことにお金を使うより、心から故人を偲びたい人が、家で静かに故人を思い、故人に語りかけたほうがよっぽど心がこもっていないか。

 

…などと考えつつ、言われたとおり4回手を叩き、深々と頭を下げている私。

どう考えても、滑稽でしかなかった。

 

 

 

 

 

 

こうなると 命もなんだか 軽くなる

鞠子

 

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