今年度初の映画鑑賞は『月』。
神奈川県の精神障がい者施設で実際におきた殺傷事件をモチーフにした辺見庸さんの小説を基にした作品だ。
その事件、覚えている。
職員が多数の入所者を殺害、重軽傷を負わせた衝撃的な事件だった。
「犯人」=「悪者」と決めつけるのは簡単なことだ。だが、そんなふうに決めつけることも、もしくは障がい者に関わる様々は、決してきれいごとでは済まされないのだといい格好をすることもできないほど、私はその様々を知らない。知ろうともしていない。もっとはっきり言えば、見ないよう、知らないようにしてきたし、知らずに生きてこられた(←と、映画の中でも突きつけられた)。
知ったところで何もできやしないし、何かしようともしないだろう。それもまた事実。
話せなければ、心がなければ人間ではない。生きている価値はない ―― 入所している人たちに対し「人」として懸命に相対してきた職員のさとくん(←犯人)は、頑張れば頑張るほど、その結論に凝り固まった。
この結論、果たしてそうか。違うか。そうだと言い切れるか。じゃあ違うと言い切れるか。
この映画が提示しているものは、あまりにも重い。そして答えがない。
目を背けている私の顔をムリムリ前向かせ、瞬きすらさせないよう仕向けてくるかのごとくだった。
でもだからこそ、とことんリアルにこだわってほしかった。
中心となる人物4人が、「何か大きな文学賞を取った作家」「海外での賞を取るアニメーション作家」「小説家を目指す女性」「相当上手な絵が描ける男性」という、何かしら「表現する力」を人並み以上に持った人ばかりというのが、現実味をそいでしまっている気がする。
施設長から「決して近づいてはならない」と言われている部屋。そこにはおぞましい状態で1人の入所者が閉じ込められているのだが、この場面もリアリティを欠く。いかにおぞましい状態でも、この人が生きているということは、少なくとも誰かが食事は運んでいるわけで、誰も近づいていないなんてありえない。
みんな都合の悪いことは隠蔽し、本音を隠して生きている ―― これも、施設職員が言った。
その通りだ。
だけど、隠蔽していることに耐えがたい苦痛を感じている人も間違いなくいる。
なにより、
本音をさらそうとしても、言葉にした途端、本音じゃなくなる。
心中を言葉で表すなん基本不可能で、せいぜいできても「より、本音に近い」程度なのだ。
それが人間の限界なのだと思う。
『月』を観た観後感ですら、今、ブログに打った途端、決してイコール私の本音ではなくなっている。
イノチとは 命か心か 生命か
鞠子