細井和喜蔵の『工場』と『奴隷』を立て続けに読んだ。
最初、『奴隷』を読んだのだが、『工場』がその後編とのことで、最後、主人公はいったいどうなるのか気になって仕方がなく、ともに長編なのだが、つい読んでしまった。
極貧の子ども時代、機屋の奉公人時代、そして急速な近代化が始まる紡績工場で働く時代……主人公を含め、搾取されまくる労働者が描かれる。
いわゆるプロレタリア文学なのだが、怒りは搾取する側、つまり資本家に向けてだけではない。途中、ちらりと「機械が人の働き方を変える」ことに対する怒りや不安が描かれる場面があり、ここが妙に引っかかった。
これらが書かれたのがおよそ100年近く前。
そのころは「織機が」、現在は「ITやAIが」人の働き方を変えるとして危惧されているのだ。
それを突き詰めれば、織機もITやAIも、人間が利便性を追求してつくりだしたものであり、つまり「自分のつくったものに首を絞められている」ということになるのではないか。
そもそも利便性を追求すれば、あれこれ便利になるが、結局、便利になったように思えるだけで、長い目でみたら人間の持つ能力の一つ一つをそぎ落としてく結果になっているとしか思えない。
100年前は織機、今はITやAI、そしてさらに100年後、人間は自分のつくりだした何に脅かされているだろうか。
そのとき、人間はもはやハード面でもソフト面でも今の人間とは全く別の生物になっているかもしれないな。
作者が『工場』や『奴隷』で訴えたかったことは、そんなことじゃなかったとは思うけど。
手も足も 目・耳・口も いらぬ明日
鞠子