朝、出勤時、後方から救急車が走って来るのが分かった。
しかし、行く手には「開かず」で有名な踏切がある。
案の定、遮断機が下りた。
電光表示によると西進の電車がまもなく来るようだが、開かずの名のとおり、しばらくすると東進の電車が来る表示も出たりする。そして運が悪いと、これを数回繰り返す。その間、遮断機は全く上がらなかったり、上がったのにすぐまた下りたりして長いこと待たされる。
救急車は、この道、避けた方がいいのではないか。一体どうするんだろう。こっちのほうがドキドキしてしまった。
救急車は、大胆にも、完全に反対車線にはみ出て遮断機の前で停車した。
そして、遮断機が上がるやいなや、対向車の前を横切り、隣の車の前に割り込んで、先を急いだ。
結構、鮮やかに踏切をすり抜けていったが、当然の如く、その間、私たちも対向車線の車たちも、みんな動かず待っていた。
これは当たり前のことで、不思議でも何でもない。
だが、ふと思うのだ。
この待たされた車の中に、1分1秒も余裕のない人がいるのではないか、と。
身内が危篤、とか、絶対遅刻が許されない日、とか。
救急車を優先させたがために、その後の人生が大きく狂ってしまった人がいるのではないか。
……ゼロじゃない、と思う。
救急車のせいで人生が狂った人・救急車で命が救われた人・救急車の到着が遅くて不幸な結果になってしまった人。
それも「人の運命」。
……なんて、割り切れるかな、自分自身がそういう目に遭ったとき。
今朝の救急車が向かった先の人は、大丈夫だっただろうか。
私はいつものよう、無事に職場に着いたけど。
あと一歩 下がればそれが 見えてくる
鞠子