近しいところで葬儀があり、いちお親族ではあるのだが、雑用でも動かねばならない微妙な立場にいる私は、昨日、今日とまる2日間、拘束された。
特に私がしなければならない雑な用の中で、事前から気詰まりだったことの一つが、故人の姉、Hさんへの応対。
Hさん、某新興宗教の熱心な信者なのである。
一般的な仏式や神式での葬儀には出られない。
それこそうーんと昔の話だが、Hさんのお父さんが亡くなったときも、葬儀の時、ひと悶着あった。
そのときは、お通夜も告別式も自宅で行われたのだが、家にすら入らなかったのである。
Hさんの御主人、子どもも来たが、信者はHさんだけらしく、Hさん以外は全員式に出た。その間、Hさんは外で待っていた。
数年後、Hさんのお母さんが亡くなったときも同様。
このときはお寺で執り行ったのだが、Hさんはやっぱり外で待っていた。
お父さんのときもお母さんのときも、まわりが何と説得しても、頑として参列することを拒否した。
当時、大学生だった私は、Hさんの行動が全く理解できなかった。
自分の親なのに。親と仲たがいしていたわけでも何でもないのに。会場まで来て中に入らない、そこまでする意味が何かあるのか、と。
あれからウン十年経ち、Hさんも相当高齢になっているし近いところでもないしコロナの問題もあるので、喪家の誰もが今回、Hさんは来ないと思っていた。
私もそう思っていた。
だが、予想に反し、通夜も告別式も出る、という連絡が入った。
今回は、私一人で受付対応しなくてはならない。
喪家に関係する家族があのころとは違い、かつ広がっている以上、式場に来たHさんが外のベンチに座っているなどということになったら私が追及され、でも、私の口から、Hさんが中に入らない理由など、決して言いたくないし言えるわけもない。
…等々、相当身構えていたが、やってきたHさんは、記帳してすんなり式場に入った。
意外だった。
さすがに焼香はせず、他の参列者は不審に思ったかもしれないが、足腰が悪いんだなとみんな勝手に解釈したに違いない。
Hさん、あんなに厚い信仰心を持っていたのに。
排他的な考え方の宗教であればあるほど、今日のHさんの行動は「神(←その宗教では神というのか仏というのかも私には分からないが)を裏切った」ことになるのではないか。
そんな自分自身をHさんは許せるのか。
全く宗教心のない私にとってはどうでもいいことなのだが、Hさんのあまりの変貌ぶりを見て、勝手にこう結論づけた。
おそらく、Hさんの信仰心は変わっていない。
だけど、外で待つだけの体力はなく、空調のいいところで座っていないと耐えられない。
だから会場には入る。でも、手を合わせたり焼香をしたりはしない。
つまり、
信仰も結局、健康なからだあってこそなのだ、と。
これが凡人の信仰なのだ、と。
私の宗教心のなさにますます追い打ちをかけた今日のHさん。
御年91歳だそうだ。
故人より 周囲が気になる 冷酷人
鞠子