ここのところ、とっても落胆し、幻滅を感じていることがある。

 

ずっと「机上の仕事」をしてきた某人が、とある事情でその仕事をやめざるをえなくなった。

だが、十分とはいえないまでも悠々自適状態。これからは、机下を自身の目で見、聞き、触れて生きていきたいと言われる。

現にご本人、机下に降り立ったつもりでいらっしゃるらしい。だが、私から見たら、机は全く取り払われていない。以前と全く変わっておらず、いつも机上からの目線で話をされる。

 

長い間、机上の仕事をしていた人が机下に降り立つのは、そうそう簡単なことじゃない。

これは私とて、全く同じことだ。

ただ私の場合、それでも爪の間を真っ黒な油で汚している職人さんや、お風呂に入っても決して生魚のにおいが取れない職人さんにじかに接する機会が往々にしてあった。その都度、感動もしたし、そういう人たちが、思い通りの製品ができ、思い通りの売り方ができたときに一瞬見せる喜びの表情を「とてもうらましい」と思った。私が味わうことのないその喜びを、あれこれ想像したりもした。だが一方で、いつも「私には、この人たちの日常も苦労も喜びも、決してわかったと思ってはいけないのだ」と自分に言い聞かせていた。

どれも自分の実体験ではないのだ。日常のほんの一コマを垣間見ただけ。こういう機会がいくらあろうとも、机下に降り立ったなどと、思ったら間違う。

ましてや、こういう機会すらない人が、油まるけの手の人や、魚のにおいがプンプンする人のことを理解できようもない。

 

某人の望みを真に受けた私は、以前、油まるけの手の人々が大勢いるところに案内したが、さして興味を示されなかった。それどころか、いかにも面倒くさそうだった。油にまみれた人々を、ご自身の目で見、聞き、触れて理解しようとしているとは全然思えなかった。

 

そもそも、ストレートに言ってしまえば、机上で成果を上げた人ほど机下に降り立つのはムリなのだ。

 

たとえ仕事でなくなっても、ずっと机上でい続けてほしかった。

机上のままでよかったのだ。

これからは机下で、なんて軽々しく言ってほしくなかった。

私は某人を尊敬していた。

だからよけいに失望し、落胆し、幻滅している。

 

 

 

 

 

 

 

好きになり 敬うからこそ 傷を負う

鞠子

 

ブログランキング・にほんブログ村へ