今日は、バッハ・コレギウム・ジャパンの演奏会へ。
チェンバロ協奏曲第4番・第7番・第6番・第3番を聴いた。

先々週、合唱団で『クリスマスオラトリオ』を練習していたとき、私の隣に座っていたトモ(←私より年上の)が急に泣き出した。
本人が言うには「嫌なこと・悲しいことがあったわけじゃない。歌ったら幸せになれる…そんな気がして涙が止まらない」。
泣ける曲ではないのに、なにかしら、その日の彼女の琴線に触れてしまった。

今日の私も同じ。
最初の第4番を聴いているうちにもう泣けてきた。やっぱり泣ける曲じゃないのに。

以前、声楽レッスンのあと、先生をお送りする車内で、「かれこれ10年、車内でカンタータばかり聴いているのに全然飽きない」と話したら、先生曰く。

「バッハの音楽は押しつけがないから。聞き手の自由に任されている」

なるほど、確かにそう。すごく納得した。
だから、軽やかで明るい曲調でも、ときによっては泣ける。

とはいえ、バッハは怖くもある。
今日の演奏を聴きながら、思った。
チェンバロ・ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロ・ヴィオローネ、そして今日はリコーダーも加わったのだが、全ての旋律が緻密で精密に描かれている。
誰か一人、正確さを欠いたらたちまち崩壊する。だけど、「呼吸しながら」演奏しなければ、バッハの音楽は生きてこない。つまり、単に正確でありさえすればよい、というわけではないのだ。
9名の奏者がそれぞれ自分の呼吸を大事にしながら、他奏者の呼吸も大事にする。音の出し方が全く異なる楽器を使いながら。
それがどんなに難しいことか。

だが、それが成ったときには、まるで「この世のものとは思えない音の重なりと流れ」に満ちる。

やっぱり私はバッハが好き。
私のなかでは「音楽=バッハ」。
どうにも浮気はできそうにない。