昨晩、文学講座で芥川龍之介『蜘蛛の糸』を読んだ。
懐かしい…
これを初めて読んだのは、中学生だったか高校生だったか。
教員養成課程を経て、私も多くのトモたちと同じように国語の教員になっていたとしたら、この作品について、「だから『自分だけ助かろう』という考えではだめなんです」などと、浅薄で表面的でもっともらしいことしか言わなかっただろうな、と思う。
初読の時も、その程度の読みしかしていないはず。だから、詳細などすっかり忘れていた。
だが、今になって再読したら、全く違うことに心奪われた。
自分だけ助かろうとして再度地獄に落ちた犍陀多より、蜘蛛の糸をたれた御釈迦様の「物憂げな様子」がすごく気になるのだ。
まず、冒頭の「御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました」で思った。
え? ぶらぶら? 御釈迦様がぶらぶら散策?
御釈迦様、ヒマなんだ。確かに平和で穏やかな極楽には「スリリングなことは何もない」。
――御釈迦様は退屈に違いない。
退屈すぎて、死にそうなのだ。
そのときふと、蓮池の下にある地獄を見た。そこには、犍陀多をはじめ多くの罪人たちが苦しみ、のたうち、うごめいている。
そういえば犍陀多は、昔、蜘蛛を助けたではないか…などと、つまらぬ些事なぞ思い出された御釈迦様は、ま、救ってやるかとばかり、蜘蛛の糸をするするとお下しになるのである。
御釈迦様、苦しむ罪人たちを見て心痛めるわけでも、己の罪を知れと怒るわけでもない。
つまり、御釈迦様の一連、すべてが「退屈しのぎの気まぐれ・思いつき」と読めてしまうのだ。 そう考えると、「蜘蛛の糸で犍陀多がうまく釣れたら面白い」などという遊び心まで勘ぐってしまう。
するとますます、私の思考は意地悪くなる。
蜘蛛の糸が切れ、犍陀多以下、罪人全員、地獄に落ちるのを見た御釈迦様は、「悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました」と、全くあっけない。
その心中、本音は、
「あ―あ、やっぱり落ちよったか。なんとつまらぬ。犍陀多がここまであがってきたら、悪行の裏話なんぞ聞かせてもらお、と思ったのに」
つまり、
悲しいのは犍陀多を救えなかったことではなく、「退屈な時間がまた始まったこと」であり、「これからも延々と続くことにうんざりしたから」なのではないか。
平和で退屈な毎日。
もはやあきらめるしかない。
御釈迦様の苦痛は、ぜいたくな苦痛ではある。だが、こういう苦痛も間違いなくある。
地獄でもがく罪人たちの方が生き生きとした生命力に溢れ、御釈迦様の方が生きる屍みたい。なんとも皮肉な話ではないか。
ともあれ、
極楽は圧倒的に平和だ。蓮池の蓮は、御釈迦様がどんなに退屈しようとも、はるか底まで落ちていった犍陀多がどんなに苦しもうとも、どうでもよい。一切関係なくゆれている。
苦しんでいる人も退屈な人も、泣いている人も笑っている人も、その本人だけのこと。まわりは関心を持っていない。
これはまさに人間社会の縮図でもある。
…などと、世俗にまみれた今だからこそ感じた様々。
すぐれた作品は、年を経てから改めて読むと、いかにも自分の人生が反映され、こうして何度でも楽しめる。
懐かしい…
これを初めて読んだのは、中学生だったか高校生だったか。
教員養成課程を経て、私も多くのトモたちと同じように国語の教員になっていたとしたら、この作品について、「だから『自分だけ助かろう』という考えではだめなんです」などと、浅薄で表面的でもっともらしいことしか言わなかっただろうな、と思う。
初読の時も、その程度の読みしかしていないはず。だから、詳細などすっかり忘れていた。
だが、今になって再読したら、全く違うことに心奪われた。
自分だけ助かろうとして再度地獄に落ちた犍陀多より、蜘蛛の糸をたれた御釈迦様の「物憂げな様子」がすごく気になるのだ。
まず、冒頭の「御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました」で思った。
え? ぶらぶら? 御釈迦様がぶらぶら散策?
御釈迦様、ヒマなんだ。確かに平和で穏やかな極楽には「スリリングなことは何もない」。
――御釈迦様は退屈に違いない。
退屈すぎて、死にそうなのだ。
そのときふと、蓮池の下にある地獄を見た。そこには、犍陀多をはじめ多くの罪人たちが苦しみ、のたうち、うごめいている。
そういえば犍陀多は、昔、蜘蛛を助けたではないか…などと、つまらぬ些事なぞ思い出された御釈迦様は、ま、救ってやるかとばかり、蜘蛛の糸をするするとお下しになるのである。
御釈迦様、苦しむ罪人たちを見て心痛めるわけでも、己の罪を知れと怒るわけでもない。
つまり、御釈迦様の一連、すべてが「退屈しのぎの気まぐれ・思いつき」と読めてしまうのだ。 そう考えると、「蜘蛛の糸で犍陀多がうまく釣れたら面白い」などという遊び心まで勘ぐってしまう。
するとますます、私の思考は意地悪くなる。
蜘蛛の糸が切れ、犍陀多以下、罪人全員、地獄に落ちるのを見た御釈迦様は、「悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました」と、全くあっけない。
その心中、本音は、
「あ―あ、やっぱり落ちよったか。なんとつまらぬ。犍陀多がここまであがってきたら、悪行の裏話なんぞ聞かせてもらお、と思ったのに」
つまり、
悲しいのは犍陀多を救えなかったことではなく、「退屈な時間がまた始まったこと」であり、「これからも延々と続くことにうんざりしたから」なのではないか。
平和で退屈な毎日。
もはやあきらめるしかない。
御釈迦様の苦痛は、ぜいたくな苦痛ではある。だが、こういう苦痛も間違いなくある。
地獄でもがく罪人たちの方が生き生きとした生命力に溢れ、御釈迦様の方が生きる屍みたい。なんとも皮肉な話ではないか。
ともあれ、
極楽は圧倒的に平和だ。蓮池の蓮は、御釈迦様がどんなに退屈しようとも、はるか底まで落ちていった犍陀多がどんなに苦しもうとも、どうでもよい。一切関係なくゆれている。
苦しんでいる人も退屈な人も、泣いている人も笑っている人も、その本人だけのこと。まわりは関心を持っていない。
これはまさに人間社会の縮図でもある。
…などと、世俗にまみれた今だからこそ感じた様々。
すぐれた作品は、年を経てから改めて読むと、いかにも自分の人生が反映され、こうして何度でも楽しめる。