関荘一郎が書いた『「道草」のモデルと語る記』を読んで、びっくりした。
夏目漱石が、自身の人生を書いたと言われる『道草』。
そこに出てくる健三(←漱石)の養父・嶋田(←漱石の実の養父・塩原昌之助がモデルと言われている)は、なんとも性悪な人物として描かれている。
育てたことを恩に着せ、健三に再三無心をする。人を使ってまで金を強請しようとする。だがしかし、本当の養父・塩原は「そんなことはしていないし、人間的にもそんな人じゃない」と、直接話をした関荘一郎が証言しているのだ。むしろ、「恩知らずで恥知らず」と漱石の方を糾弾している。

どちらの養父像が正しいのか。
どちらかが正しく、どちらかがウソをついている。
だが、考えれば考えるほど、私は「どちらも真実なのではないか」と思えるのだ。

― 真実は、人によって違う。最近、とみにそう思うようになった。

例えば私が職場のオトコ後輩に、「これ、やってくれない?」と仕事を頼むとする。
私はあくまで「依頼」をしただけ。
だが、相手にしてみれば「命令された」ととらえることは往々にしてある。
人間関係、そのときの私の雰囲気や後輩の心持ち、依頼した時や場所 … 真実は、いかようにも形を変える。
だから、養父にしてみれば、あんなに慈しみ育てた金之助(←漱石の本名)が…となるし、漱石にしてみれば、どこまでつきまとえば気が済むのか…となるのは、十分想像できる。

それに、そもそも『道草』は小説だ。100%事実じゃないし、事実である必要もない。作品の完成度をあげるためには、当然、創作もするし誇張もするし話も盛る。
しかし、「ほぼ事実に基づいている」と周辺の誰もが思う以上、悪く書かれた人の怒りは相当のものに違いない。

また、『「道草」のモデルと語る記』は、あくまでも塩原と話をした関荘一郎が書いたもの。関が塩原に同情したのなら、塩原寄りの文になるのはあたりまえだ。誰だって、自分の主観で書く。ときには、否定を肯定にしてしまうことだってある。

だから、真実はわからない。でもすべてが真実なのだ。そう思う。
・・・なんて、若いころの私なら、決して許せない着地点だと思うけど。