「鞠子さんとしゃべってると、どんどん時間が経ってしまう」
「つい、余計なことまでしゃべってしまう」
「鞠子さんに頼まれたらイヤと言えない」
…昨日書いたブログのこの文言、実は切ない続きがあるのである。
街中で、腕を組んで歩いている男女の後ろ姿を見た。
どう見ても男性は「おじいちゃん」、女性は「20代」。
「歩行が怪しいおじいちゃんを手助けする孫」ならほほえましいのだが、このペアは全くそう見えない。
なぜなら、おじいちゃんは、精一杯のおしゃれをしているし、女性はいかにも水っぽいから。
それよりなによりおじいちゃんの歩行は全然問題がなさそうであり、女性の片手にはブランドロゴ入りの紙袋がいくつもかかっていたからだ。
信号待ちのとき、後ろに近づいて会話を盗み聞きした。(だって私、好奇心満載)
「何かあったら、連絡してよね。ねえ、どうやって連絡くれるの」
「絶対連絡するに決まっとる。せんわけ、ないやないか」
何の連絡かはわからぬが、いでたち、しゃべり方、雰囲気…これこそいわゆる「援助交際」と言われるものではないか。
思わず追い越して、なにげに振り向いた。
女性の異様なほどのつけまつげ。そしておじいちゃんの得意げでうれしそうな顔。
―ばかだなあ、おじいちゃん。
気の毒で、すごく切なくなってしまった。
しかし、ハタと気づいた。
「鞠子さんとしゃべってると、どんどん時間が経ってしまう」
「つい、余計なことまでしゃべってしまう」
「鞠子さんに頼まれたらイヤと言えない」
これだってまさしく、援助交際にぴったりではないか。
…そうか、私の仕事と援助交際は相通ずるものがあるのか。
いや、さまざまな仕事を見回しても、これは普遍的&基本的な原則ではないか。
そう思ったら、違う意味で切なくなってきた。
はい、もちろん、私の仕事は援助交際ではありません。
なにより容姿&年齢ともに失格だと思います。
人と人愛が縁(えにし)そうありたい
鞠子