「教育が違うんだから仕方がない」
彼の腹の中には常にこういう答弁があった。
「やっぱり手前味噌よ」
これは何時でも細君の解釈であった。
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彼はいまだかつて月末に細君の手から支出の明細書を突き付けられた例がなかった。
「まあどうにかしているんだろう」
彼は常にこう考えた。それで自分に金の要る時は遠慮なく細君に請求した。
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「ああ厭だ」
活動を好まない彼の頭には常にこんな観念が潜んでいた。
……………………………
…以上、夏目漱石『道草』から抜き出した。
もちろん、こうして部分的に抜き出しても何のことかわからないが、単独の文章として読む上には、何ら引っかかることはない。
普通にさらさらと読み進める。
だが、ここで問題なのは、「常に」というワード。
「常に」とは、「どんなときでも・いつも・絶えず」だ。
では彼は、「教育が違うんだから仕方がない」と本当に常に思っていたのか? いつも? ご飯を食べていても? お風呂に入っていても?
同様に、「まあどうにかしているんだろう」はどうか。「ああ厭だ」はどうか。
冷静に考えたら、決して「常に」じゃない。そんなはずがない。
つまり、これらの「常に」は厳密にはウソなのである。
最初の、「やっぱり手前味噌よ」と「細君が『何時でも』解釈する」も、同様にあり得ない。
強調するために、本来の意味とは違った意味で使われているのである。
…と文学講座で聞いて、感動した。
ふだん、しゃべったり書いたり聞いたり読んだりしている言葉が、意味以外の力を持つということに改めて気づいた。
同時に、自身が使う言葉は、相手に大きな影響を与えたり、予想外の解釈をされたりする可能性がとても大きいのだという恐さも感じた。
その友が常に友とは限らない
鞠子