「君たちが国語の先生になったとき、いかに上手に朗読するか。それによって、子どもが国語を好きになるか嫌いになるかが決まる」
・・・と、はるか昔、大学生のころ、漢文学の先生に言われた。
当時は、あ、そうなの?くらいにしか思わなかったが、今はこのこと、すごくよくわかる。
『雀こ』という太宰治の作品がある。
「井伏鱒二へ。津軽の言葉で。」と書き添えられている。
自分を成している故郷の匂いを師匠にわかってもらいたくて書いたのだろうか。(その割には呼び捨てだが)
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からすあ、があて啼けば、橡の実あ、一つぼたんて落づるずおん。
また、からすあ、があて啼けば、橡の実あ、一つぼたんて落づるずおん。
また、からすあ、があて啼けば、橡の実あ、一つぼたんて落づるずおん。
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終始、この調子。読んだとき、どうすればいいのか、これは…と思った。
だが、声に出して読んでみると、津軽の言葉の調子が全くわからぬ私でも、心に響いてくる何かがある、と気づかされた。(だまされたと思って、アナタも一度読んでみてください)
なので私も、小説やらエッセイやら、どこかに投稿するために書いたものは、出す前に、何度も何度も音読してチェックすることにした。
本人が読みに詰まるようではだめだし、声に出してストンと落ちなければ、不十分だとつくづく思うから。
今年、応募した数種の作品、すべて結果が出揃った。
いくつか賞をいただけることになった(もちろん、選外になったものも多々あるのだが)。
なかでも一番うれしかったのは、初めて投稿した可児市文芸祭での受賞。
ここは表彰式のあと朗読会があり、文学座の女優さんが朗読してくださるという副賞がついているのだ。
自分の書いたものを、プロの方に読んでいただける。
それを聞くなんて。
すべて初体験(*´∀`)♪
…たぶん、ものすごく恥ずかしいだろうな。
でも、きっと、聞きながら「?」と思うところが見つかると思う。
自分で読んでいるときには気づかなかったまずさや稚拙さ。
それこそが、本当の「副賞」に違いなく、今からドキドキしているのである。
名作を知れば知るほど無力知る
鞠子