週末、ピアノ・デュオリサイタルに行った。
ピアニストは、そう、あのウラディーミル・アシュケナージとその息子、ヴォフカ・アシュケナージ。
この超豪華デュオ、私は2年前にも聴いた。
そのときは、行く前から「咳一つ許されぬのではないか」とびくびくしていたのだが、実は「気さく感満載」ですごく楽しめた。
・・・で、今回はリラックスして聴きにいった。
ところが・・・
アシュケナージの譜めくりをしていた若い男性がミスをしたのである。
2枚めくってしまったか、戻すのを忘れたか。
そのとき、アシュケナージがものすごい形相で彼をにらんだのを、まともに見てしまった。
譜めくりの彼は顔色を失い、以後の譜めくりは、気の毒なほど手が震えていた。
もう、平常心が取り戻せなかったのだろう。
その後も、譜をめくるタイミングが合わなかったり、ペラの譜を余計に移動させたりして、そのつどにらまれていた。
「たかが譜めくり」では絶対、絶対、ないのである。
楽譜が的確に読めることはあったりまえ。そしてどこで立ち上がるか、どのタイミングでめくるか。
ピアニストは極度に集中している。
だから譜めくりの如何によって、演奏が大きく変わってしまうのである。
…私も音楽に関わり、そのことをはじめて知った。
アシュケナージの譜めくりができるなんて非常に光栄なことだけど、紙一重でもあるのだ。
アシュケナージほどの人になれば、演奏中の精神状態は、凡人の私には想像もつかない。
譜めくりのミスは許せないだろう。
一方、譜めくりの彼の心を思うと、胸が痛くてならなかった。
会場で出会った音楽トモは、「音楽に集中できなくなってしまうので、途中から、前の人の頭を利用して、譜めくりを見ないようにしていた」と言っていた。
音楽の怖さを改めて痛感してしまったリサイタルだった。
2人の奏でた音は、さぞすばらしかったんだろうな。
このシーンを見なければ、その音を存分に堪能できたのかな。
…まあこれはこれで、いい経験をした、ということにしておこう。
この音は今だけの音二度とない 鞠子
ピアニストは、そう、あのウラディーミル・アシュケナージとその息子、ヴォフカ・アシュケナージ。
この超豪華デュオ、私は2年前にも聴いた。
そのときは、行く前から「咳一つ許されぬのではないか」とびくびくしていたのだが、実は「気さく感満載」ですごく楽しめた。
・・・で、今回はリラックスして聴きにいった。
ところが・・・
アシュケナージの譜めくりをしていた若い男性がミスをしたのである。
2枚めくってしまったか、戻すのを忘れたか。
そのとき、アシュケナージがものすごい形相で彼をにらんだのを、まともに見てしまった。
譜めくりの彼は顔色を失い、以後の譜めくりは、気の毒なほど手が震えていた。
もう、平常心が取り戻せなかったのだろう。
その後も、譜をめくるタイミングが合わなかったり、ペラの譜を余計に移動させたりして、そのつどにらまれていた。
「たかが譜めくり」では絶対、絶対、ないのである。
楽譜が的確に読めることはあったりまえ。そしてどこで立ち上がるか、どのタイミングでめくるか。
ピアニストは極度に集中している。
だから譜めくりの如何によって、演奏が大きく変わってしまうのである。
…私も音楽に関わり、そのことをはじめて知った。
アシュケナージの譜めくりができるなんて非常に光栄なことだけど、紙一重でもあるのだ。
アシュケナージほどの人になれば、演奏中の精神状態は、凡人の私には想像もつかない。
譜めくりのミスは許せないだろう。
一方、譜めくりの彼の心を思うと、胸が痛くてならなかった。
会場で出会った音楽トモは、「音楽に集中できなくなってしまうので、途中から、前の人の頭を利用して、譜めくりを見ないようにしていた」と言っていた。
音楽の怖さを改めて痛感してしまったリサイタルだった。
2人の奏でた音は、さぞすばらしかったんだろうな。
このシーンを見なければ、その音を存分に堪能できたのかな。
…まあこれはこれで、いい経験をした、ということにしておこう。
この音は今だけの音二度とない 鞠子