今、文学講座で、夏目漱石の『私の個人主義』を学んでいる。
大正3年、学習院大学での漱石の講演記録だ。

最初、これを読んだとき、真っ先に共感の線を引いたのはこの部分だった。

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この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるより外に、私を救う途はないのだと悟ったのです。

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漱石は煩悶していた。
大学で英文学を学んでも、文学が何なのか、さっぱりわからない。
そのまま教師になったものの、興味もわかなければやる気もない。
でも、何かしなきゃだめだという思いが自分を追い詰める。
ならば何をすればいいのか、何も見えてこない。

そんな不安を抱えて公費で留学。
本を読み漁り、ロンドン中を歩いても、やはり空虚さは埋まらない。
このとき、初めて先出の「文学の概念は自分で作り出すしかないのだ」という思いに至ったのだ。

この間の漱石の心の変化に、私はとても心を打たれた。

だが、講座で話を聞いているうちに、今度は別のことが気になり出した。
そういえば、自分で作り出すしかないのは、文学だけではないのではないか、と。

およそ「創造」というものは、もちろん文学や美術や音楽といった芸術も、さらには家庭、子育て、恋愛、あるいは経営、教育といったものまで含めて、すべて「その概念は自分で考えて作り出すしかない」のではないか。
マニュアルなんて、「広く浅くあてはまりそうなこと」を拾ってあるだけで、十人十色の人に見合うわけがない。

しかし、これはまどろっこしく、つらい。
面倒でもある。
「こうしたらうまくいく」と言われれば、それにすがりつきたくなってしまう。

それではダメなのだ。
自分で考えるしかない。

人生とは何か、なぜいずれは死ぬとわかっていてもあくせく毎日生きているのか。
こんな「思春期みたいな、でもいつまでも持ち続けている疑問」も、結局、自分で考え、自分で答えを作り出すしかない。

・・なにをこんな当たり前のことを・・・と自分でもあきれつつ、100年前の漱石の言葉がそれを示唆してくれたかと思うと、新たな感慨でいっぱいになった。




生きる意味わからないから生きている   鞠子