昼休み、テレビで山梨県早川町の「ジビエ料理」が紹介されていた。
ここでは新鮮で美味な「鹿」が食べられるらしい。
「食」に関して全く冒険できず、かつ好き嫌いありすぎな私にとっては無関係な世界の話なのだが、画面をぼんやり見ながら考えた。
・・・私はなぜ「鹿」が食べられないか。
正確には「食べたことがない」のである。
かといって、「食べてみたい」とも思わない。
何かのまちがいで口にしてみて「あ、おいしいじゃないの」と思ったとしても、じゃあ次、積極的に食するか、と問われたら、食さない、と思う。
これは結局、「先入観」の問題だ。
私には、「鹿=食べない動物」と刷り込まれた意識を覆すことは難しい。
牛や豚は、はなから「食べるもの」と刷り込まれているから、抵抗なく口にできる。
鹿を食すのは残酷。牛や豚を食すのは残酷でない。
・・・心のどこかで、こう感じている。
しかし、野菜だって果物だって、もともと生きているものだ。
だが、キャベツを収穫しても、りんごをもいでも、それらを食べても「残酷」とは思わない。
これって大変身勝手な論理ではないか。
考えてみれば、私たちが口にするもので「100%人工物」ってあるだろうか。
例えばカップ麺の麺だって小麦粉からつくられているし、カップスープだって野菜や牛乳を加工してつくられている。
つまり、「私たちが口にする全てのものが、私たち以外の生き物」ということだ。
・・・そうか、本当に「他の生命を奪って生きている」んだ。
人間の生の営みすべてが身勝手。
・・・鹿肉の料理を見ながら、なんだかとても、切なくなった。
動物も他人も傷つけ生きている 鞠子
ここでは新鮮で美味な「鹿」が食べられるらしい。
「食」に関して全く冒険できず、かつ好き嫌いありすぎな私にとっては無関係な世界の話なのだが、画面をぼんやり見ながら考えた。
・・・私はなぜ「鹿」が食べられないか。
正確には「食べたことがない」のである。
かといって、「食べてみたい」とも思わない。
何かのまちがいで口にしてみて「あ、おいしいじゃないの」と思ったとしても、じゃあ次、積極的に食するか、と問われたら、食さない、と思う。
これは結局、「先入観」の問題だ。
私には、「鹿=食べない動物」と刷り込まれた意識を覆すことは難しい。
牛や豚は、はなから「食べるもの」と刷り込まれているから、抵抗なく口にできる。
鹿を食すのは残酷。牛や豚を食すのは残酷でない。
・・・心のどこかで、こう感じている。
しかし、野菜だって果物だって、もともと生きているものだ。
だが、キャベツを収穫しても、りんごをもいでも、それらを食べても「残酷」とは思わない。
これって大変身勝手な論理ではないか。
考えてみれば、私たちが口にするもので「100%人工物」ってあるだろうか。
例えばカップ麺の麺だって小麦粉からつくられているし、カップスープだって野菜や牛乳を加工してつくられている。
つまり、「私たちが口にする全てのものが、私たち以外の生き物」ということだ。
・・・そうか、本当に「他の生命を奪って生きている」んだ。
人間の生の営みすべてが身勝手。
・・・鹿肉の料理を見ながら、なんだかとても、切なくなった。
動物も他人も傷つけ生きている 鞠子