「清原逮捕」のニュースで、思い出したことがある。

もう随分前の話。
結婚して1年経つか経たないかの友人が、「寂しくて寂しくて、居場所がない」と電話してきた。

彼女は生まれた時から、きわめて大人数の中にいた。
両親+兄やら妹やら3人+住み込みの従業員。つごう10名前後の人々が、いつも寝食を共にしていた。

ところが嫁いだ先は、母と息子の2人暮らし。
彼が幼いうちに父は病で亡くなり、母は一人でがんばった。それに応えて息子は医師になった。

母は、息子にお嫁さんがきたからにはもう楽をさせてもらいたいということで、家のこと一切を任せ、自室にこもって好きな油絵に没頭。

いわゆる「姑がいろいろ口を出す」というトラブルとは真逆。
姑は、なにも言わない。
私の友人は、旦那さんを仕事に送り出したが最後、一日のうちのほとんどを1人きりで過ごさなければならなくなった。

さらにつらさを増したのがお正月。

実家のお正月は、従業員の親やら友だちやら親戚縁者やらで大騒ぎ。
しかし婚家は、誰も来なければどこへも行かず、静かに寝正月。
その静けさが耐えられない、どこにいたらいいのかわからない、というのが彼女の言い分だった。

姑さんと同居しているお嫁さんにとっては、ある意味、うらやましいような境遇だ。
私自身も、理解できなかった。
お金に困らない。姑さんはなにも言わない。時間だって自由に使えるじゃないの、と。

だが、にぎやかな家で育った彼女には、耐え難い苦痛だった。

薬物にはしるということは、何より自分のからだを痛めつけることになる。
日本では、逮捕される。
ただ清原氏が、離婚後、家庭を失った寂しさ、子どもへの募る思いを薬物にはしった理由の1つとしてあげているのを見て、とても切なく思った。
この人の場合、「華やかな栄光」を経験しているだけに、そこから堕ちた状態というのも耐え難かったのだと思う。

私の友人も、人から見ればうらやむような境遇にも関わらず、「もう耐えられない」と電話口で泣いたのだ。

ある人にとっては「幸せ」も、他の人にとってはとてつもなく「不幸」。
逆もまた、しかり。

「清原はとても弱い人間だった」という知人のコメントも耳にしたが、弱いのは彼だけではない。
もちろん、だからといって「薬物」は許されない。
なにより、自分自身のために許されない。

痛ましい。




幸せも孤独も抱え目を閉じる       鞠子