『ピカソ、天才の秘密』展を観てきた。

ピカソ、と言えば、大きな顔やら、四角だの三角だの、角がカクカクした形がはめこまれてて、目があらぬ方向に向いているやら、「あの絵」が思い浮かぶ。
つまり、言葉で表現しにくいあの構図。
そうそう『ゲルニカ』。

だがしかし、そういう絵のスタイルに行き着くまで、さまざまな変遷を得ている。
それを「少年時代」「青の時代」「バラ色の時代」「キュビスム」の4つに分け、展示がなされていた。

あたりまえだが、
天才と言われるゆえん、「どんな絵でも描ける」のである。

デッサンも、写実画みたいなのも、デザイン画も、版画も。
模倣もハンパなくできる。
黙って見せられたら「ロートレックが描いた」と言ってしまいそうな作品もあった。

文学も音楽も絵も同じ。
「出会うべきときに出会う」もしくは「出会うべきときに出会い直す」。
例えば解説に「深い悲しみをたたえた瞳」とあっても、今の私には「自分の可能性を信じる強い意志の表れ」と見えた。
盲目の父とその家族。4人がぼろをまとい砂浜を歩く絵には、「悲しみ」より「それでも身を寄せ合う家族の絆」を感じた。
これが昨年観ていたら、あるいは来年観たら、全く違う印象を持つ、と思う。

文学も音楽も絵も、すぐれた作品、というのは、受け手の成長度合いによって「見方が変わる作品」だと思う。
だから時代が変わっても愛され、親しまれ、受け継がれる。

絵に対する知識など全くないのに、絵を観にいくと、なぜだか泣けてしまう。
たぶん、この1作品を完成させるまでに、作者はどれだけ心身をすりへらしたか、なのに描き終わったあと、100%の満足感などなく、さらなる思いに苛まれ・・・などと無意識に想像してしまうからだろうと思う。

そのくせ美術館から出て来たあとの心の中は、ふんわりと満ち足りている。



描かれる悲しみ苦しみそれも人    鞠子