本から本がつながって、今、石原千秋『教養として読む現代文学』を読んでいる。
早稲田大学の石原教授が、自分自身の体験をふまえた、現代文学の「ちょっと違った読み方」を書いた本だ。

中で、大岡昇平『武蔵野夫人』を取り上げている章にジャック・ラカンの言葉とその解説があるのだが、これが超ショ―ゲキ的だった。

現代思想の基礎ともなった有名なテーゼらしい。
それは、
「無意識は言葉のように構造化されている」

うん、これではわかりにくいが、石原教授は、こう書いている。
「人の感情は、言葉が与えられて初めて『その感情』になる」

え~、うそっ(@ ̄□ ̄@;)!!

…ということは、例えば「怒りが心の中でモヤモヤして、言葉にならない」状態は、「怒り」という感情にならないのか。

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「ここはなんてところですか」と勉は訊いた。
「恋ケ窪さ」と相手はぶっきら棒に答えた。
道子の膝は力を失った。
〈中略〉
「恋」こそ今まで彼女の避けていた言葉であった。しかし勉と一緒に遡った一つの川の源がその名を持っていたことは、道々彼女の感じた感情がそれであることを明らかに示しているように思われた。
                        『武蔵野夫人』第四章 「恋ケ窪」

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道子と勉は土手を歩き池の傍に立った。水田にいた百姓に、ここは何というところかと聞いたのだ。そして「恋ケ窪」という地名だと聞いて、今まで避けてきた「恋」という言葉が与えられて、初めて「恋」という感情になったのだ、というわけ。

いや、恋ケ窪に来る前から、お互い憎からず思っていたんだろ?
もともと「恋をしていた」んだろ?
「二人で歩いている」「池を見つめている」、そんなロマンチックな風景の後押しで「恋っぽいもの」が「恋になった」のではないか。

しかし、地名の一文字に反応するとは…

ない、とは言い切れないが、新鮮な驚きだった。

同時に、
「恋」という微妙でかつ豊かな感情の子細など、いまや私には、実感としてとらえられなくなってしまった。

ところで、
いろいろ小生意気な意見を述べてみたものの、
実は私、『武蔵野夫人』を読んだことがない。
読まずにあれこれ言ってんのである。
だから、私の読み取りは傾いているかも。
…というより、ジャック・ラカンのテーゼや石原教授の説を正しく理解していないのかも。

…ん、じゃあ、『武蔵野夫人』、読むか。

…だめだ、今は積読だらけで。
順番はなかなか回ってきそうにない。