哲学者、鷲田清一氏と社会学者、大澤真幸氏の対談から。
「僕は3.11まで原発のことをほとんど知らず、消極的に是認した。それが事故を招き、被害はこれから何十年も生きる人、その子孫に及ぶ。すごく申し訳ない」(大澤氏)
学者、と名のつく人が公の場でこんなふうに謝罪することが新鮮だった。
原発のこと、私も3.11まで考えたこともなければ意識したこともなかった。
大きな地震がきたら、こうなる可能性もある…とわかってた有識者もいたはずだよねえ。
少数派だったのか、もみ消されていたのか。それすらも、知らない。
「原発も金融も、誰も正解を知らない中で考えることが大事になる」(鷲田氏)
え、そうなのか。
世の中には超人的に頭のいい人がいて、「こういう手を打ったら、すべての人が普通に暮らせる経済状況にできる」とか、「原発は、こういう処置をすれば安全に利用できる」とか、わかってるものだと思ってた。
いろんな利害が絡んでるから、簡単にはやれないというだけのことじゃないのか。
違うのか。誰も正解を知らないのか。
「一番のレッスンが憲法論議と思う。憲法は、世界に対して自分たちがどのようなスタンスをとるのかを示した最重要の外交文書だから」
誰も正解がわからない中で正解を導き出すためには、「レッスン」がいる。
それは「論議」だと言う。
例えば原発や金融という国単位の大きな問題ではなくても、地方自治体とか地域とか、会社、あるいは家庭、夫婦もそうだと思う。
正解を導き出すレッスン=論議が大切。
考えてみれば、当たり前のことだ。
だけど、この「レッスン」は時間がかかり、まどろっこしい。
おまけに「レッスン」中に、痛みを伴うこともある。
だがしかし、何とかしないと。
ひとつずつ、手を打っていかないと。
また、とんでもないことが起こりゃしないか。