浅薄な知識しかないなりに、村上春樹氏の『ウェルト文学賞』授賞スピーチに素朴な疑問を持った。

村上氏は、「世界には民族、宗教、不寛容といった多くの壁がある」、さらに、「壁は私たちを守ることもある。しかしそのためには、他者を排除しなければならない。それが壁の論理だ」、とし、「壁はやがて、他の仕組みの論理を受け入れない固定化したシステムとなる。時には暴力を伴って」、と言っている。

「壁」について、ずいぶん否定的な見方をしている、と読めた。

だけど私は、「壁があるのはあたりまえの姿」、だと思う。
いろんな民族があり、信じている神が違い、価値観がみんな違う。
それぞれの間に壁があるのは自然なことだと思う。

むしろ問題なのは、「壁のしなりと透明度」だ。

ぶつかってもびくともせず、相手に傷を負わせてはねのける、とか、透明度ゼロで相手の壁の向こう側が何も見えない、というのが怖い、と思う。

ただ、
民族や宗教の壁は、長い長い年月の間に培われたものだから、簡単にはしならない。
もちろん、透明にもならない。
だから、
「私はA教を信じているから、それ以外は全部×」ではなく、「B教を信じてる人、C教を信じてる人もいるんだな」、みたいなしなりを持つ努力をコツコツと進めていくしかない、と思う。

…けど、いかにも世間(世界)知らずの甘い考え方か? これは。

ところで、
偶然、評論家・荻上チキ氏が「人生の転機となった本」として、石原千秋『教養としての大学受験国語』を紹介している記事もあわせて読んだ。

荻上氏はこの本から、
「〈教養〉というのは、他者に対して威張るためのステータスではなく、他者を理解し受け入れるためのツールであるということを、若いうちに学べたのが最大の宝だった」、と述べていた。

そうそう、これだよ、これ。

世界中、壁なし、同一宗教、同一民族だったら、これはこれで異様だ。
壁はある。
あってしかるべき。
ただし、しなる壁と透明度の高い壁。
それには「教養」が問われる、全世界的に。

…あまりにも壮大だけど、これなら納得できるな。