例えば、「靴を買おう」という時、靴の専門店がたくさん入っている大型ショッピングセンターに行き、靴屋さんをすべてまわってから、買う靴を選ぶ。

…のが、これまでの私だった。

いわゆる優柔不断。
あ、これ、いいな、と思っても、「次の店にはもっといい靴があるかも?」と考えてしまう。
それに、
「すべての靴屋さんをまわる」という根気も十二分にあった。

でも今や、それほどまでにしていい靴がほしい、という欲もなければ、何店もの靴屋をまわる気力もない。
だから、
「選択肢はあまり多くない方が楽だな」と思ってしまう。

ところで、
私のそんな少選択肢肯定を、もっとシビアな視点から指摘している作家がいた。

久坂部羊氏のエッセイ「医療の進歩に疑問」。

例えば胃ろう。

この技術が確立したため、何らかの理由で口から食べられなくなった人や誤飲を繰り返す人が、「安全に長生き」できるようになった。

しかしその反面、意識もなく、重度の床ずれや浮腫を起こしても「死ねない」。

かといって、家族が胃ろうを拒めば「死ぬことを選択した」ことにつながる。

こんなつらい選択を迫られるのは、突き詰めれば、胃ろうという医療技術が発達したからだ。
この処置が初めから存在しなければ、苦渋の選択はしなくてもよくなる。

久坂部氏曰く
「医療の進歩は暗い面もあるということを、少し意識しておいた方がいい。その心の備えが、自分自身を守ることにつながるから」

この人は医師でもあるので、多くの患者やその家族の岐路に立ちあっている。
そこから生まれた実感だろうと思う。

私の「靴がほしい」話はとるに足らない選択肢だが、命に関わるとなれば、選択ミスは取り返しがつかない。

選択肢がない。対処法を知らない。
その方が心は幸せ、ということが、結構多いような気がする。


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