今日から松江文学学校が始まった。

初日の今日、講師は佐野眞一氏。ついこの前、橋下さんの件でトラブルがあった人だ。

今回の講座にあたり、事前に佐野氏が書いた『あぶく銭師たちよ!昭和虚人伝』を読んだ。
私はノンフィクションとかルポルタージュとか、基本的には読まない人なので、新鮮と言えば新鮮だったし、綿密な調査がなされていることに圧倒されたが、1つ間違ったら「嫌がらせ」「チクリ」ともとれなくはないなという疑問を感じた。

特に出自や生い立ちに関することなど、誰しも触れられたくない、あるいは他人が触れてはいけないことがあるに違いない。
それを書いて世の中に出すというのは、ある意味「命がけ」ではないか。

…ということで、かなり批判的な思いで講座に臨んだのだが、それはそれとして、実は気づかされたことがいくつもあった。

1つは、字が書ける、読めるということが、いかにすばらしいか、ということだ。

佐野氏は沖縄の取材を通し、文盲のために、真の愛情に応えられない人がいること、文盲の責任は戦争にあることを指摘していた。

そして2つ目、
知りたいことを知るということは、知りたくないことも知ってしまう、ということだ。

沖縄も、東日本大震災も、「正しい姿を知らなければ何も始まらない」。
でも知れば、傷つくこと、悲しいこと、腹ただしいことも知ってしまう。

3つ目、
ウィキペディアでは、「物事を立体的に組み立てられない」ということ。

1つのノンフィクションを書くのに、ウィキで知り得た知識を羅列するだけでは浅いものにしかならない。
関連するさまざまな本を読み、さらには自分の目や耳で確かめ、自分で考えて組み立てる。
でなければ、ノンフィクションやルポルタージュは書けない。

…考えてみれば、すべて当たり前のことだが、改めて身が引き締まる思いだった。

朝5時起床、かつ、講座より列車に乗ってる時間の方がうんと長いんだけど、貴重な1時間半でした。


…駄菓子菓子…

講座とか講演会とか、たいてい最後に質疑応答の時間があるんだけど、必ずと言っていいほど、うんざりする発言がある。
限られた時間なのに、前段がやたらと長いとか、自分のことばかり話すとか。

今日など、「質問」する時間なのに、わざわざ手を挙げて、「感想」、それも「著書、読みました。すごくよかった。これからも頑張って下さい」、みたいなうすっぺらいことをクドクドお話しになるご婦人がいて、がっかりした。

空気、読みなはれって-の(`Δ´)

そんなこんなで時間がきてしまい、私も質問したいことがあったのだが断念せざるをえませんでした。