BFのI君に、「オレは鞠ちゃんの話を聞いててうんざりした。見苦しい。それじゃあY氏(←めっちゃヤなヤツ)とおんなじだ」と超辛辣な指摘をされた話は、No.678のブログに書いた通り。

「うんざり・Y氏・見苦しい」なんて、指摘を通り越して全否定だと思った私は、彼に反論する気力もなく、ほかりっぱなしにしてあった。

…が、ソヤツから連絡があった。
「借りてた本、返したいんだけど」などと言って。

…それで今日夜、一緒に食事をした。

貸してたのは、山岸外史『人間太宰治』。
その中で、彼が何ヵ所かメモ用紙に抜き書きしてきた。
山岸は、同じことを異なる表現で、何回も何回も書いているところがある、と言うのだ。

「人間同士というものがどんなに深く理解され、ほんとに親しいものになったと考えられていたような場合でも、実はそれぞれの間には驚いていいほど大きな距離があるものだ。
そこには意外な深い谷もあれば、気のつきにくい暗黒の深淵さえあるものだ」

「相互にひどく食い違った個性の悲劇を、ぼくはなんと名づけていいのかわからなかった。『結局、人間同士は相互に理解できないものなのだ』太宰もそのことを書いているのである」

「しかし人間というものは、ほんとに妙なものだと思う。どんなに親しくなっても、また交友が深くなればなるほど、かえって距離と差別とを発見するということである。個性の実存的な差がわかってくるのである。…そして人間は、しばしばそんな違和の主観の中で、そのまま個人の生活を続けていくのであり、実は各人が相手を真に知ることなしに決別してゆくのです」

「夫婦にしても親兄弟にしても、こんなことだと思う。そして相互に真の相手を知らずに生きているのである。むしろ愛とは、この個人差を発見することだと言ったらどんなものであろうか。そしてたぶん友情とは、この違和感に寛大であること以外の何でもあり得なかったのである」

「人間が相互に、生きているままに、少しのまちがいもなく完全に理解しあえることは、絶無に近いことではなかったのだろうか」

…I君が、この抜き書きを通して何を言おうとしたのか、よくわかった。

この本、私は読んでからI君に貸したのだが、抜き書きされた部分は、まったくノーマークだった。

やはりその時々の心情にあった部分ばかりが際立って見えてくるに違いない。
今、私がこの本を読んだら、I君と似た部分を選んだのではないだろうか。

一方、私の方は…

この間、とある理由で島崎藤村『破壊』を読んだ。
主人公・瀬川丑松が父の呪縛を破り、己の出自を土下座しながら告白するシーンでは、ナミダナミダ状態になってしまった。
何度も告白シーンがよみがえり、そのたびに、込み上げてくる気持ちがある。

「全否定」というのは、この丑松が受けた痛みのことを言うのだ。
私がI君にされた「全否定」など、痛みのうちには入らない。

…こうして、文芸評論家と文豪が書いたものによって、お互いささくれた心を、それなりに整理したのでありました。

…長い1日だった…