とうとう田中慎弥氏の芥川賞受賞作『共喰い』を読み始めた。
…正しくは、読書トモBFが、受賞作が掲載された文藝春秋を、半ば強制的に押しつけてくれた。

私には、読んでみたいけど、実際手にとって読むのは億劫だなあ…という矛盾した感情をなぜか持ってしまう本が結構ある。
この『共喰い』も、その1つで、押しつけられてなお、読むのを一日伸ばしにしていた。

…もしかしたら、それは、私の本能が嗅ぎ付けたのかもしれないf^_^;

まず、最初の2ページくらい読んだところで、
あ、私、この小説、ダメそう…と思ってしまったのだ。
うまく言えないけど、文章のイメージ、トーンが、生理的にどうも合わない。

『共喰い』を3分の2ほど読んだ現段階で、何が受け入れられないのか考えてみた。

1つは、
作品から、作者の根底にある世間に対するうらみつらみが、透けて見えるような気がしてならないからだ。
主人公は劣悪な家庭環境にあって、感情の起伏をコントロールすることで、ようやく息をしている感じがする。
劣悪な状況に置かれた人が主人公になってる小説はいくつか読んだことがあるが、乱暴に分類すれば、公然と世間に反抗するか、開き直るか、自助努力ではい上がるか、だった。ところが『共喰い』は、表現の一つ一つから、「オレは悪くない。悪いのは世間だ(>_<)という作者自身の恨みが、あっちからもこっちからもにおってくる

2つめ
女の人が、生きてる感じがしないこと。
例えば千種さん。
決してアバズレではなさそなのに、遠馬とからだの関係を続けている。「そのたびに痛い」と言うくらい、身体的に未熟な段階だ。でも「気にしなくていい」と言う。それくらい遠馬が好きだから、好きな人の望みをかなえてあげたいという思いなのか、自虐的なのか、どちらとも読み取れない。
千種は18歳の高校生だ。
こういった一連の行為に対し、不安や憧れ、恐怖や動揺など、複雑な感情が渦巻くはずなのに、行動も発言も「まるで熟年女性」だ。

それに生みの母親と、次の女と同居している父親が、目と鼻の先に住んでいて、鰻と煮物をやり取りするなんて、あまりにも不自然ではないか。
そこに彼女らの感情が読み取れない。

作者は、「女」を知らない、あるいは「女を蔑んでいる」、そんなことまで考えてしまう。


参考までに、貸してくれた読書トモBF評。
「川の描き方がすごい。川の流れ、におい、淀みまでが目に浮かぶようだ」
ふぅん、なるほどね。
最後まで読んだら、私の感想も大変化するかな?

…いろいろとナマイキ評論しまして申し訳ありません。

でもさ、
芥川賞とろうが直木賞とろうが、受け入れられないものは受け入れられない。
絵でも小説でも音楽でも、そういうものでしょう?
だからおもしろいんだし…