仕事でも、プライベートでも、文章を書く機会が多い。
特に仕事上の議事録、議論録といった記録物作成や、講演内容を要約整文した読み物作成の際、あえて使わないようにしている言葉がある。
その1『落としどころ』
「この議論の落としどころはどこか」…なんて、会議なんかで発言する人がよくいるけど、何か上から目線じみてて嫌いなの、この言葉。
そもそも落としどころはここ、なんて事前に決めたら、会議の意味がないじゃん。
その2『落とし込む』
「落」系統がダメなのかも、私…
「落とし込む」、これは益々横暴感が募る。「理念を落とし込む」、なんて使われると、抵抗する人々の姿が浮かんで嫌な気になる。
発言者や講演者がこれらの言葉を使っても、原稿作成段階で別の表現に変えてしまったりカットしてしまう私は、テープリライターとしては失格だと思うけど。徹底した正確さが問われるわけじゃないし、最後は報告者・発言者に校正してもらうから、安心して大胆に文章化できる。
ちなみに『落としどころ』や『落とし込む』を切ったり別の言葉に置き換えても、校正でもとに戻されたことは一度もない。
逆に言えば、議論や報告をまとめた文書は、書き手の意向がかなり反映され、ニュアンスの違うものになっている可能性もあるということだ。
発言や報告の際、なにげに使われる言葉から、結構、人となりが透けて見えるもの。
『落としどころ』や『落とし込む』を意識的に使わないことで、私の人となりも透けてませんか?
特に仕事上の議事録、議論録といった記録物作成や、講演内容を要約整文した読み物作成の際、あえて使わないようにしている言葉がある。
その1『落としどころ』
「この議論の落としどころはどこか」…なんて、会議なんかで発言する人がよくいるけど、何か上から目線じみてて嫌いなの、この言葉。
そもそも落としどころはここ、なんて事前に決めたら、会議の意味がないじゃん。
その2『落とし込む』
「落」系統がダメなのかも、私…
「落とし込む」、これは益々横暴感が募る。「理念を落とし込む」、なんて使われると、抵抗する人々の姿が浮かんで嫌な気になる。
発言者や講演者がこれらの言葉を使っても、原稿作成段階で別の表現に変えてしまったりカットしてしまう私は、テープリライターとしては失格だと思うけど。徹底した正確さが問われるわけじゃないし、最後は報告者・発言者に校正してもらうから、安心して大胆に文章化できる。
ちなみに『落としどころ』や『落とし込む』を切ったり別の言葉に置き換えても、校正でもとに戻されたことは一度もない。
逆に言えば、議論や報告をまとめた文書は、書き手の意向がかなり反映され、ニュアンスの違うものになっている可能性もあるということだ。
発言や報告の際、なにげに使われる言葉から、結構、人となりが透けて見えるもの。
『落としどころ』や『落とし込む』を意識的に使わないことで、私の人となりも透けてませんか?