2024.5.31
今回の泉南市歴史倶楽部の例会はちょっと趣向を変えて気軽に街歩きと言うことで
大阪市の天満から造幣局を見学して大川べりを歩きました。
xx跡ということで碑が立っているだけのところがほとんどですが4回に分けて報告
します。
今日のコース
JR大阪天満宮駅~大阪天満宮~桜之宮公園(昼食)~造幣局~JR大阪城北詰駅
南に歩いて大川淵の南天満公園まで来ました。
この辺り一帯はかつて青物市場があったところで、江戸時代には堂島の米市場、
雑喉場(ざこば)の魚市場と並ぶ大阪の三大市場の一つとして栄えたそうです。
摂津名所図会には当時の繁盛ぶりが描かれています。
昭和6年に中央卸売市場に吸収されました。
対岸には八軒家船着き場があり大川は京都大阪を結ぶ水上交通の要衝でした。
公園を川に沿って東に歩くと「天満の子守歌」碑があります。
歌詞に出てくる木津と難波の両村からは子守娘が多く出ていたのでこのような歌が
歌われていたのでしょうね。
少し先には「淀川三十石船舟歌」碑が並んでいました。
京伏見から八軒家まで淀川水運が天下の台所をささえていました。
以前に枚方宿を歩いた時にも三十石船が出てきた時の報告がここにあります。
当寺の船頭や庶民によってうたわれていた歌のようです。
桜の木が並んで植えられ花見の名所になっています。
天満橋の袂まで来ると将棊島粗朶水制跡(しょうぎじまそだすいせいあと)の碑。
1874年にオランダ人技師デ・レーケ、エッシェル、ティッセンの三人により築造された淀川の水が寝屋川・鯰江川に逆流し水害を起こすのを防止するため、三つの川の合流点である綱島から天満橋を越えて430mほど下流までの隔流堤だそうです。現在は洪水の危険はほとんど聞かない大川ですが、近年まで水難に苦しんだ歴史が
よくわかる場所です。
この工法はケレップ水制と呼ばれ、木の枝を束ね、組合わせたものに石を詰め、河岸から川の中央に向かって設置された突起物で、水の勢いを弱め、護岸に効果があったそうです。旭区の城北公園北側の淀川左岸に名残があるようです。
天満橋の下を越えてこちらへ隔流堤が伸びていたそうですが今は跡形もありません。
川崎東照宮跡へ行く途中、
大正初期から昭和初期にかけて天満界隈は天満宮のところでも述べたように日本の
ガラス工業をリードしていました。魔法瓶の中瓶を作る優秀なガラス職人も集中していたため日本の魔法瓶産業の中心となりました。象印まほうびん記念館があります。
今回は見学をカット。
滝川小学校の正門前に川崎東照宮跡の碑が建っています。
川崎東照宮は大阪冬・夏の陣の後、大阪城主になった松平忠明が元和2年(1616)
に創建。大阪町民が豊臣家を慕う気持ちを薄れさせるために建てたようです。
本殿は大塩平八郎の乱で焼失し明治6年に廃社になったそうです。
造幣局まで来ました。官舎の敷地内に江戸時代の天満与力だった中嶋藤内家の役宅門
が移築、改築され残されています。この付近は与力の役宅が軒を並べていた場所だそうで、唯一残存している建物だそうです。
レンガ塀で囲まれた造幣局官舎の敷地内を移動して
造幣局の建屋の横を通って
やはり官舎の敷地内。洗心洞跡の碑に来ました。
大坂町奉行の与力であり陽明学者でもあった大塩平八郎が文政8年(1825)に
洗心洞と名付けた学塾を開きました。
天保8年(1837)大飢饉で困窮した大阪町民を救うため乱を起こしますが一日で
鎮圧され大塩の自刃で決着します。国道1号線沿いに乱で砲火を浴びた樹齢200年
の槐(えんじゅ)の木が昭和後期まで立っていたそうですが今は枯れてしまった後に
碑が建っています。
国道沿いはケヤキの並木のようですが碑の横の一本だけ槐の木が植わっています。
いよいよ午後一番は造幣局の見学ですが昼食のために造幣局の前を通り過ぎで
桜之宮公園和泉布館地区へ。泉布観は改装工事中で養生の中。
泉布観は造幣局の応接所として明治4年に建てられた日本初の二階建て本格洋風建築
です。
その奥には旧桜宮公会堂が建っています。
玄関は明治4年に建てられた造幣寮鋳造所の正面玄関を昭和9年に明治天皇記念館として復元移築したものです。今はどうやら民間の結婚式場のよう?
間違っていたら教えてください。
大川を眺めながらお弁当タイム。ハトやスズメがおこぼれを期待して寄ってきます。
造幣局の工場見学。正門で受付を済ませ案内係の方を待ちます。
桜の通り抜けで歩く道を花見の時の一歩通行とは逆方向に工場へ向かいます。
藤棚の下を通ります。
明治天皇が行幸された時に使用した生け花の藤を挿し木したものが育ったそうです。
句碑やいろいろなものが道脇にあります。
銅像の奥に日本で一番古い西洋式のガス灯だそうです。
創業当時の正門が残されていました。
今まで紹介した造幣局周辺のやさしい説明がここにあります。