2016.6.22
泉南市埋蔵文化センターフィールドワーク「歴史倶楽部」は年間のテーマを設定し、
それに沿った見学会を中心に歴史を考えるという講座です。
平成28年度のテーマは『「行基」の生涯を探る』ということになりました。
行基は奈良時代に活躍した僧で西暦668年に堺の家原寺(えばらじ)で生まれ、わが国で初めて大僧正になった人です。民衆への布教活動や寺院建立のほかに全国各地でため池などの社会事業を行ったと言う伝承があります。行基の生誕から活動、入滅までを現地見学しながら学ぶことになりました。
復習をかね、頂いた資料や先生にご教示頂いたことを整理しています。聞き違いもあると思いますが・・
行基は天智天皇7年(668)父、高志才智(こしのさいち)、母、蜂田古爾比売(はちだのこにひめ)の長子として河内国大鳥郡に生まれ、生家は後に寺に改められ、家原寺(えばらじ)とされたそうです。
生存中の記録は残っていませんが墓誌「舎利瓶器」や「続日本紀」「行基年譜」等から足跡をうかがえます。

 

今回は行基も改修工事に携わったことがあるという大阪狭山市にある狭山池とその
周辺を訪ねました。
狭山池は平成の改修の際に行われた発掘調査によって7世紀の616年頃に造られたことが明らかになり今年でちょうど1400年になります。「行基年譜」によると天平3年(731)行基64歳の時に狭山池院と尼院を造ったと記されており行基が築造にかかわったとされる15ヵ所の池の一つになります。

 

今日のコース
   南海狭山駅~東野廃寺~狭山藩陣屋跡~狭山池・狭山池博物館~池尻城跡~
   池之原神社~吉川家住宅~狭山神社~南海金剛駅

 

飛鳥時代616年に狭山池が築造された頃の最初の堤の高さは5.4m、底幅27m。
盛土にはカシ等の枝葉を敷き詰めて土を盛る敷葉工法が用いられています。
行基が奈良時代731年頃に行ったこの池の改修事業は堤を60cmほどかさ上げして高さ6mとしただけのものだったようです。従って狭山池の歴史における改修事業としては規模は小さいものの長さ300mあった堤を60cmかさ上げするだけでも当時としては大変な作業だったと思われます。
今回の行基に関する見学はわずかに堤の地層に痕跡を残すだけのごく一部になって
しまいました。

 

写真はその後、奈良時代の律令国家が762年に改修した時、飛鳥時代の樋に追加延長された部分です。堤を3.5m高くし、底幅は池の内側に27m広がり、樋も延長されました。
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この律令国家の改修は天平宝字の改修と呼ばれています。
盛土にはやはり敷葉工法が用いられています。
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その後、平安時代にも改修されたようです。(弘仁の改修)
さらに鎌倉時代には東大寺の僧重源によって改修されています。重源坐像のレプリカの前に展示されたこの石は建仁2年(1202)に改修された改修碑です。
江戸時代の改修の際、樋の部材に使用されていました。
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重源の改修時には樋取水部などに古墳の石棺が利用されていました。
棺内部には塗られた朱が確認できます。
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もちろん石棺の蓋も。これらは江戸時代の改修で再び再利用されていました。
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重源の改修した樋のミニチュアです。
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室町時代にも改修された記録があるようです。
江戸時代になり豊臣秀頼の家臣、片桐且元の慶長の改修工事では多くの船の部材が出土しました。
樋の取水口に泥が入らないように土留めなどに、木材が多く使われていました。
この木材は秀吉の朝鮮出兵等に使われた古代の軍船の部材が再利用されたようです。
写真は西樋遺構から出土した船板です。
狭山池には東樋、中樋、西樋の三つの樋があったようです。
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地すべりを防ぐ為に型枠を造ってその間に土を入れる江戸時代の木製枠工です。
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江戸時代の中樋の復元ミニチュアです。これで見ると中樋全体がよく判ります。
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ミニチュアの左部分のレプリカや現物で復元されています。
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中央部分。
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右部分です。重源が改修した時に使用した古墳の石棺等が再利用されています。
この部分に先ほど紹介した改修の記録を彫りこんだ碑石が使われていました。
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中樋に再利用されていた石棺等の石樋取水部として復元された現物は前の方の写真で紹介しました。
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西樋には尺八樋と呼ばれる四段の取水口を持つ取水部が取り付けられました。
池の水位に応じて水面に近い栓を抜いて池の上層部から放水します。
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中樋の奥に灯台のようにそびえたっているのが昭和の取水口です。
大正、昭和の改修の時に設置されたものを今回の改修で撤去し館内に移築しています。
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今も農業用灌漑池として重要な役割をはたしている狭山池の灌漑ネットワークが展示されています。スイッチオンとともに池から流れ出る水の経路が一目で確かめられます。
これで博物館の見学は終わりですが、以前に狭山池から天野山金剛寺まで陶器山経由で歩いた時の報告がここにあります。
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博物館の見学を終えて昼食後、周辺を見学しながら帰路に着きました。
狭山池の西北側に13世紀末から15世紀前半にかけて池尻城があったことが昭和60年の発掘調査で確認されました。この付近は狭山池の要となる北堤に近接、中高野街道を抑える交通の要衝、正平2年(1347)に楠木正行(まさつら)と足利軍の合戦場になるなど軍事上重要な場所だったようです。
太刀装具の冑金(かぶとがね)が見つかり近江源氏の佐々木氏の家紋、三目結文が配されていたそうです。
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狭山池の西淵を龍神社の前を通り西徐川を渡り池之原神社へ向かう途中、辻家の長屋門の前を通りました。
高い塀に囲われた住宅は個人がお住いになっていて非公開ですが国登録文化財になっています。
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狭山池の西側池之原地区に池之原神社があります。以前は熊野神社と言われていましたが明治の神社合祀で今熊地区の今熊野神社に合祀され、今熊野神社は三都神社と改称されました。昭和53年になって復興新たに池之原神社として祀られました。
その関係で境内には古い石灯籠や手水鉢が残っていました。
以前に三都神社へ行ったことがあるのを思い出しました。その時のブログがここにあります。
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この住宅の家紋。北条家の家紋では?
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狭山池の南に回り狭山神社によって今回のフィールドワークは終了です。
狭山池に流れ込む西徐川です。もう少し上流に行くと天野川とも呼ばれています。
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狭山神社の途中には府指定文化財、吉川家住宅がありました。
狭山市内に現存する最古の家屋だそうです。
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延喜式内社の狭山神社まで来ました。
主祭神は天照皇大神、素戔嗚命だそうですが臣狭山命(おみさやまのみこと)も祀られています。臣狭山命は狭山池を神格化した神様で当地に居住していた中臣氏がこの神を祀っていたそうです。現社殿は室町時代中期の明応2年(1493)の再建と推定されています。
境内東の森には土塁が確認され池尻城とともに狭山池周辺に存在した半田城の主郭跡ではないかと考えられているそうです。
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拝殿の左側にはこれも式内社の狭山堤神社が摂社として祀られています。
式内社がこのような形で祀られているのは大変珍しいそうです。
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神社の東側が今日の終着点。南海金剛駅です。今日の報告はここまでです。
狭山池の樋遺構等の埋蔵文化財の詳しい資料がここに掲載されています。

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