2015.9.26
秋晴れの中、狭山池から陶器山丘陵の尾根道を歩き天野街道を天野山金剛寺まで約15Kmを歩きました。

 

今回のコース
南海金剛駅~狭山池~陶器山~三都神社~天野山金剛寺~(バス)~南海河内長野駅
3回に分けて報告ます。
    
南海金剛駅をスタート。狭山池へ向かいますが途中にある狭山神社に寄りました。
狭山神社は創建の年代は不詳ですが、崇神天皇の勅願により、狭山池の築造以前に創建されたと伝えられ、南北朝の動乱で焼失したものの、室町時代に再建されたそうです。
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国の史跡にも指定された狭山池に着きました。
一周2.8Kmをぐっるっとまわって行くことに。
狭山池は古事記や日本書紀にもその名が登場する飛鳥時代に築造された日本最古の
ダム形式ため池です。
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長い歴史の中で幾度の改修され奈良時代の行基、鎌倉時代の重源、江戸時代の片桐且元など歴史上有名な人物もたずさわってきたようです。
慶長13年(1608)の改修の際に西樋、中樋、東樋の3つの樋が設置されたことがわかっていました。東樋では時代の異なる遺構が上下2層から見つかり、下層から見つかったものは狭山池が築造された当初に設置された古代の樋で、使われている木材の年代測定の結果、西暦616年ごろに伐採されたものだということも判ったそうです。
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池の淵には安藤忠雄設計による狭山池博物館が建っています。
1400年の歴史で各時代の最先端の土木技術による開発の歴史を紹介したり、堤体断面の実物をはじめ平成の改修で出土した文化財を中心に展示しているそうです。
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東から北へ池の淵の遊歩道を回って西側まで来ると龍神社の祠が池の中に浮かんでいます。遠くには二上山、葛城山の山並みが。
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蝶々がたくさん待っていると思ったらどうやらバタフライガーデンです。
蝶が蜜を吸う花や、産卵・生育するための餌等になる植物を植えているそうです。
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狭山池をほぼ一周して狭山池通りを西へ。
三津屋川に架かる岩室橋を渡って直ぐ川沿いの道を
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西小学校に沿って緩やかな上り坂を。ガスタンクの横を通り抜け。
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西高野街道に出くわします。すぐ右手に三叉路が。
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西高野街道と天野街道の分岐点。右手の方が天野街道のスタート点です。
天野街道は岩室で西高野街道と分かれて、真っ直ぐに南へ天野山金剛寺へ通じる道です。古い道標には「右 あまの山」「左 かうや山」と彫られています。
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五分ほど歩くと家並みが切れて陶器山丘陵の整備された遊歩道に入りました。
案内図があります。
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案内図のすぐ先のお地蔵さんの前を通って木々が茂る自然林の中を。
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数分歩いたところで右手に行く道があります。陶器山の山頂があると思われます。
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右手に入って直ぐまた右に登って行く道があります。
真っ直ぐは別ルートからここへの登り道のようです。
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ちょっと登った小高い広場。どうやら陶器山(149m)の山頂のようですが定かではありません。給水タンクのような設備が占拠していました。
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狭山ニュータウンと泉北ニュータウンに挟まれた丘陵の尾根道を天野山金剛寺の方へ南下しています。
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見晴し台のようですが樹木が茂って見通しはありません。
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「ふるさと創生事業1億円交付」で整備されたこの遊歩道は狭山市部分が「あまの街道」と言うようです。
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あまの街道(遊歩道)の尾根道を歩いて行く途中、左手に三都神社へ下りて行く道
があります。
5分ほど下りて行くともう住宅地の一角。山際の神社と言う位置に三都神社熊野三所権現がありました。
三都と言うのは、摂津・河内・和泉の中心あたりに位置したからかも。天野街道を通って紀州熊野に向かう人々が参詣したことから、別名熊野神社とも呼ばれていたとようで、今熊神社ともいうようです。
古木が茂る大阪狭山市の保存指定樹林の森が神社の裏山になっています。
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境内社として春日社、初辰大神、熊野三宝荒神、稲荷大神、祖霊社、毘沙門天堂、
吉祥水天宮、三都戎が祀られていました。
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戎神社の本殿の裏には木盤が吊るされ、木槌が二本置かれています。
戎さんは耳が遠く神社の裏側に回って、木盤を叩かないと願い事が聞こえないと言うことです。
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再び、あまの街道の遊歩道まで戻ってきました。
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しばらく行くと石に刻まれた案内地図が立っていました。
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その1はここまでです。

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