講談社現代新書:千葉雅也著:「現代思想入門」を再読してる。
第1章デリダのところ。
普段の生活で二項対立に出会う場面は多々ある。
最初は、音声言葉vs書き言葉どちらが正確か?だった。
ここは自分が思ったことだけど、音声言葉が優秀だとしても、音声で言葉が残ることは滅多にない。
後世の人は書き言葉で歴史を知ることになる。
そうすると読み手の解釈によって、多様な解釈となる。
現代はテレビ、レコーダーなどで音声がそのまま残せるが、時代背景を理解してないと、これもまた「あの時代はそうじゃった」とも解釈する人もいれば、「けしからん」と解釈する人も出てくる。
もうひとつ、著者が与えた問いは、「優柔不断はいけない。どっちつかずでいると人に振り回されることになる。大人になると言うのは決断の重さを引き受けることだ」のようなことが書かれていた。
これは、「責任ある決断=能動的=大人」vs「優柔不断=受動的=子供」のような二項対立である。
対立と言うより、一方的に大人とはを押し付けられている気がする。
どちらか迷うことがいけないかのよう・・・
しかし迷うと言うことは、どちらかを切り捨てると言う事。
未来がわからないのだから、どちらかが再現されないと言う事。
どちらかが再現されないということは正しい選択をするのがいかに難しいかと思った。
正しかったと実証できないから。
選んだ方が良くない結果になっても、選んでない方がもっと悲惨な結果になったかもしれない。
だから優柔不断はある意味自然な現象だと思う。
著者はなんらかの決断を「赦す」しかないと言っている。
未練込みでの決断と言う倫理性を帯びた決断をできる者が本当の大人だということ。
結構考えてしまう。
欲しい本が複数あるが、全部読まないだろうし、浪費である。
でもたまに当たりがある。
全部買った。浪費だよなあ~と思う。
そのお金をもっと良いことに使おうよと思う。
でも1冊だけ買ってはずれだったらダメージがある。
政治の話はしないようにしようと思ってたが、政治的決断は誰かを切り捨てたり、税金の浪費をしたりすると大変だから、余計に難しい。
いくらこの主張が正しいと言っても、その主張に欠陥が見えていればやらないだろう。
これをなぜやらない!辞めてしまえ!と言うのは簡単である。
これこそ、もう一方の犠牲を鑑みない幼稚な主張かもしれない。
(具体的に何かを指してはいないが・・・)
政治はお互いの対話が必要である。
政権側が何も話さなければ、解釈がいかようにもとれるけど・・・
だから対話を含めて記録することも重要だと思う。
二項対立なんて存在しないのではと思ってしまう。
聞き手がいかようにも解釈できるから。
阿吽の呼吸は今まで積み重ねて来た経験があってなせる業。
でも人はブレる。
正確には、人は成長するし、変わるし、突発的に思いつくこともある。
それをずっと見続けてる人間はほとんどいない。
ブレるvsブレないの二項対立も無いと思う。
あの人この状況になってもまだ化石みたいなこと言ってるが正解なのか?
あの人この状況であっても古典に通ずる重みがあること言ってるが正解なのか?
分からない・・・
二項対立は無いけど、自分の主張と違う主張をシミュレーションしてみることには価値があるかもしれない。
本を何冊買わなかったら、新しい服に手を出せるか?とか。
きれいな服をまとえば自信出るかな?とか。
本を厳選してこれ一本を勉強しようとか。
資格試験受けてみようかなとか。
本を読まない時間運動してみようかとか。
ダイエットが順調な世界線とか。
選択する時、あらゆる可能性を考えてみる。
これが今日学んだこと。
でも即決しちゃうなあ~~タイパ症候群。
家計簿つけて後悔しちゃうけど・・・