田沼は改革者であったが成功者ではない。
だと思う。
この時代の最大の懸念は「幕府財政の悪化」と「米価安の諸色高」だったと思う。
商品の生産・流通を活発化させたのも、諸色安を狙ったものだと思う。
米価安ならば庶民は嬉しいが、武士、大名、幕府にとっては財政的に厳しい。
なぜなら農民から取る年貢、つまり米が歳入だから。
幕府・大名は米を取り立て、武士の給料を米で払っている。
その武士が生活必需品を安く買えるようにするため、醤油や塩や油や紙など商品生産・流通を活発化させた。
これは徳川吉宗の頃からの政策だが、田沼は株仲間を作らせた。
昭和の特定産業振興臨時措置法のようなもの。
車屋ならば特定のメーカーにだけ作らせて、ヒト・モノ(資源など)・カネをそこに集中させ、大きな産業に育てる目的があったと思う。
一大醤油メーカーや一大塩メーカーみたいに。
そしてそこに法人税をかけて、米以外の収入源を得て幕府財政を立て直そうとした。
商取引を活発化させるには、小判一枚は額がでかすぎる。
当時のレートだと1両=5万円くらいかな?
元文の貨幣改鋳があったから。
1両で醤油は買いづらい。
だから金一枚で銀8枚と交換できる南鐐二朱銀ができたと思う。
1枚6千円の方が醤油や塩を買いやすい。
ただ、銀の方が使い勝手が良いので、多分銀に統一されていったと思う。
しかし、銀山が枯渇しだした時代。
19世紀になると貨幣改鋳連発で貨幣価値が落ちて行く。
ここで疑問なのは、和紙で作った藩札がどこかしらの藩で使っていたのに、幕府はなぜ銀にこだわったのか?
多分、国際統一通貨が銀だっただからだと思うが、田沼の時代は国内は銀を流通させ、外国には銅や特産品を交換していた。
国内に銀を貯めておくのが良いと考えたのだろうか?
役人の賄賂は公事方御定書によって禁止されている。
だから、田沼は悪徳政治家と言える。
産業を発展させたから賄賂くらい良いだろうと思ってたかもしれない。
だから幕府の風紀委員みたいな人たちに目をつけられていたと思う。
実際、将軍・徳川家治が死去してから、失脚する。
印旛沼を干拓して、新田開発しようとするも、浅間山の大噴火で河川の増水によってその水が印旛沼に一気に流れ着いた。失敗である。
徳川吉宗の商品生産・流通路線は良かったが、銀にこだわったのが良くなかったかもしれない。
とはいえ、偽造されない紙幣を作る技術もないので、銀貨しか流通させる手立てはないのかも。
再三言う、商品生産・流通は後の明治の殖産興業に繋がるため、評価は高いと言える。
悪いやつだけど。