1860年3月、桜田門外の変。
これにより、幕府の強権がいなくなったので、幕府と朝廷が接近する公武合体が推し進められる。
1861年、和宮降嫁。
朝廷は基本攘夷だから、尊王攘夷運動が加熱する。
幕府は外交を続けていたため、開国を推し進めたい。
だから、1861年、幕府からイギリスやその他各国へ、兵庫港と新潟港の開港を延期する使節団を派遣した。この結果は、開港延期は認められたが、修好通商条約の内容は徹底してやるということ。
1862年、薩摩藩国父・島津久光が1000人の藩兵を連れて上京。
その後勅許を持って、江戸に行く。
文久の改革で、将軍後見職に一橋慶喜、政事総裁職に松平春嶽を任命。
島津久光は、帰りに生麦事件を起こす。
この年、尊王攘夷の天誅騒ぎが起こってる京都に京都守護職・松平容保が就く。
尊王攘夷派の圧力で和宮降嫁に参画した公家・岩倉具視も京都を追われてる。
1863年、将軍・徳川家茂が京に上洛。孝明天皇に謁見。
これにより、朝廷に臣従する姿が鮮明になった。
そして朝廷から攘夷を迫られる。
1863年上半期、尊王攘夷が世を席巻する!!!!
1863年7月、薩英戦争始まる。
1863年8月、攘夷の苦難を知った薩摩藩と、京都守護職の会津藩が結託して、尊王攘夷派の長州藩を京都から追い出す。(八月十八日の政変)
1863年9月、一橋慶喜は横浜鎖港の勅命が出るも、アメリカ、オランダに拒絶。
1863年11月、薩摩藩、イギリスと講和。
1863年12月、幕府は横浜鎖港談判のためフランスなどに使節団を送る。
1863年12月、朝廷は国政の諮問機関「参与会議」を設ける。
メンバーは一橋慶喜、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城、追加で島津久光。
朝廷が設けた、長州藩処分問題と横浜鎖港問題を解決せよだった。
孝明天皇は徳川家茂に長州必罰、横浜鎖港を命ずる。
1864年2月、松平容保を軍事総裁職に任ずる。長州戦争を見越して。
1864年3月、参与会議解散。意見が割れ、開国派の一橋慶喜が攘夷派になった島津久光をバカにする一幕もあり、公武合体派の諸侯も分裂。
1864年3月、一橋慶喜が禁裏御守衛総督、摂海防御指揮の役職に就く。
御所の警護と大坂湾の外国勢力の駆逐。
1864年3月、水戸で尊王攘夷志士による天狗党の乱勃発。
1864年4月、松平容保が京都守護職に復職。弟・松平定敬も京都所司代に。一会桑。
1864年4月、イギリス、フランス、アメリカ、オランダが幕府に横浜鎖港意見の撤廃、下関通過の安全を要求。従わなければ武力行使も・・・
1864年5月、横浜鎖港使節団の池田長発はフランスと決裂。
開国の必要性を感じ、パリ約定を結ぶ。
1864年6月、尊王攘夷派志士を取り締まる池田屋事件。
1864年7月、尊王攘夷過激派の長州藩が禁門の変を起こす。
1864年7月、横浜鎖港使節団帰国、勝手なことした池田長発を隠居。パリ約定も破棄。
1864年8月、4か国連合艦隊下関襲撃。
1864年8月、第一次長州征伐の総督に尾張藩主・徳川慶勝、大参謀に薩摩藩・西郷隆盛。
薩摩藩国父・島津久光はすでに幕府に対抗することを決意していて、西郷に穏便に済ませることを方針とした。
1864年9月、長州藩は下関の賠償金を幕府の通達だからと幕府に振る。
1864年9月、4か国は幕府と交渉し、賠償金の2/3を免除する代わりに兵庫開港、条約勅許、輸入関税軽減を勝ち取る。
1864年10月、長州藩は幕府に恭順のため、粛清・弾圧をおこなう。
1864年11月、長州藩は幕府に降伏、禁門の変の責任を取って三家老の切腹で手打ち。
西郷隆盛が長州藩が抗戦派と恭順派に分かれてるのを利用。
1864年11月、幕府は4か国と横浜居留地覚書に調印。
禁裏御守衛総督の一橋慶喜は孝明天皇と幕府の板挟み・・・
1864年12月、長州藩の抗戦派であった高杉晋作が下関で蜂起。長州内乱。
1865年2月、高杉晋作ら勝利。欧州式軍備に変更されていく。開港されてない下関でもイギリス商人と密貿易。幕府に対して武装しながら恭順している。
1865年3月、薩摩藩・五代友厚がイギリスに密航。
【感想】
橋本左内の国家構想を夢見た雄藩連合の一橋派は参与会議で分裂していたのか・・・
朝廷が攘夷だから、薩摩も幕府も攘夷の努力はしたけど、散々イギリス、フランス、アメリカ、オランダに圧力かけられてるね。
結局は幕府は明確に開国。長州、薩摩も裏で開国になっていく。
開国思想を持ちながらも孝明天皇に頼りにされていた禁裏御守衛総督の一橋慶喜は一体どう立ち回ったのだろう??
まあうまく立ち回れなかったから島津久光と敵対したのだけど・・・
孝明天皇の攘夷が無ければ、穏便に進んだのかなあ~~
そうしたら国体は江戸幕府のままだったのかな??